慶應義塾大学小論文過去問・解答例

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慶應義塾大学小論文過去問・解答例です。

文字の価値

エジプトの発明の神テウト「文字を学べば、知恵と記憶力が高まります」

タモス「人々が文字を学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされ、忘れっぽくなる。また、文字が与える知恵とは外面的な知恵であり、人は見かけだけの博識家となり、うぬぼれてしまう。」

テウトになりかわってタモスに反論し、その反論に対しタモスになりかわって再反論しなさい。

テウト「人間が文字という知識を上手く活用すれば、たとえ他人から与えられた知恵であれ、そこから独自の発想力を生かし、新たな知恵が生まれる可能性が大いにあります。また、脳内だけでは、記憶力の限界があります。新たな知識を次々にインプットして貯蔵するとき、必然的に古い情報は消えていってしまうでしょう。人間は1週間前の夕食を覚えておくことさえ困難です。しかし文字を使って書き記しておけば、忘れかけていた知識を再度思い出すこともできます。さらに後世にも我々の持つ知識を正しく伝承することができます。だから文字を学べば、効率的に記憶力を高められると思います。」

タモス「確かに氏の言わんとする事も一理あるが、知識は一人ひとりの人間の中に内在しているものである。文字に頼ってしまうと、人間の本質が持つ豊かな才能と記憶力を埋めたままにしてしまうかもしれない。また、後世への伝承は、絵を描いてでもできる。私は文字ではなく、人間の持つ無限の可能性に期待したい。」

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講評

一見、良さそうに見えますが、ちょっと飛躍している点が否めない。以下、3点。

①タモス対する「文字が与える知恵とは外面的な知恵」 に対する反論がないような。
②だから文字を学べば、効率的に記憶力を高められると思います。は、「だから」は、これまでの文章を受けているわけですが、論理が飛躍しすぎですね。 なので、シンプルに「文字に書き残すこと行為自体が、記憶力をつける訓練にもなっている。」と反論することもできますね。
③私は文字ではなく、人間の持つ無限の可能性に期待したい。→唐突すぎます(笑)。

タモスの反論で、文字でなく絵もあるという視点はいい。

学校教育

<問1>
学校は、そこで出会う多くの人々との相互行為が社会力の形成を促し、さまざまな個性をもったクラスメイトとのさまざまな場面での付き合いが、子どもたちの他者認識や他者への共感を育てるのに貢献をする場である。しかし、学校は、地域社会の中の一つの場所にしかすぎず、他者との交流や経験、人々の多彩さは地域社会に及ばない。

<問2>
私は、「学校での教育」において子どもが社会力を身につけるためには、フィールドワークの時間を多く設けることが必要になってくると考える。その理由は二つある。

まず一つ目は、フィールドワークでのどの調査対象であっても、地域のある対象となる空間に足を運び、子どもたち自身で聞き取り調査やアンケート調査をすることになるので、多様な他者と交流することができ、子どもたちの見聞を広げることができるからだ。長い時間を共にしている友人や先生ではない他者とのコミュニケーションがはかれる機会は有意義な時間だ。

次に二つ目は、学校をとび出して地域社会に目を向けることによって、地域社会には高齢者や障害者、働く人など多様な人々が暮らしており、暮らしを支えてくれているのだと意識することができると考えたからだ。学校の中だけだと、どうしても「子ども」や「教師」というくくりの人しか目にすることができない。そこで、地域に出てみることで、子どもたちにとって多様な人々の存在は、大変新鮮なものであるのだと思う。
このように、学校での教育で、子どもの社会力形成の場となる地域社会とふれさせるフィールドワークを行うことによって、子どもが社会力を身につけられると思う。

講評

構成はいい。根拠や理由は、もっと視点を広げ、深く掘り下げましょう。読んだ読書や資料を思い出し、考察をする必要があります。自分の浅はかな経験や考えだけでは、深い根拠や理由は乏しくなります。

また、今回の論であれば、「地域社会と連携した教育を毎週必須化にする」など言い方を変えるだけでも印象は変わる。しかしながなら、現在、学校教育では、フィールドワークを通した学びは、昔と比べずいぶんと増えているが、その辺りの弁解はどうするだろう?

話し言葉に気を付けましょう。
×学校の中だけだと、
○学校の中だけでは、

たとえばの視点

①勉強だけでなく研究(実験)の授業を増やす。勉強は、過去思考であり、過去の事実を学ぶことが多く、極論、一人でも学習は可能。一方で、研究は、未来志向であり、まだ答えはなく、試行錯誤の中で学んでいくことができる。研究は、一人では難しく、チームで取り組むものである。そこには、役割を把握したり、コミュニケーションをとったり、社会で必要になる能力を、実践を通して、身につけることができる。

②そのほかに、無学年方式の導入、クラスをなくす、特別免許制(または、免許をなくす)にし、様々な背景もつ教師を増やすなどなど、多くの視点がありそうです。

家庭教育

言葉を話すことができなっかた光くんが、自分と同じ苦しみをもち、分かち合える友人と出会い、友人のために役立つことの喜びを知ることで、自分をしっかり理解し、他の人たちとつながってゆくための言葉を見出すことができた。

光くんの在籍する学級で、教師は子供をしっかり観察しているが、教えたりアドバイスしたりしすぎず、子供に自分で考え行動させるという役割を果たしていたのだと思う。学級に様々な特性を持つ子供がいる中で、教師が子供に話しかけたり注意したりすることなく、自由にさせることで、はじめは光くんは苦しかっただろうが、自分で上手くやっていく方法を見つけ、最終的に良い結果へと導いていると考える。

子供の成長や発達にとって、家庭教育は子供に家族の愛情を教える役割を果たしており、学校教育は他者との関わり合いの中で社会での生き方を教える役割を果たしていると私は考える。家庭では、どんな時でも自分の味方をし、無条件に自分のことを愛してくれる家族に囲まれている。家族団らんの時間はもちろんのこと、悪いことをして叱られた時にも強く、家族の愛情にふれることができる。

一方、学校では、自分のことを分かってくれる人、そうでない人など様々な人が同じ場で生活している。そのため、時には我慢も必要になるし、他者との衝突も起こるだろう。しかし、そのような関わり合いを通じて、学校より大きな社会に出た時にも強く生きていくことができる。

私は、家庭で受けた愛情を学校で友人に同じように与えられることで、他者との関わりがより上手くいくと考える。ここに、家庭教育と学校教育とのつながりがあると思う。学校現場での、他者との関わり合いの中で、自分から他者へ愛情を向けずに、良好な関係が築けるとは思えない。自分の心の中の愛情などの面は、知らず知らずのうちに相手に伝わると思う。

家庭で愛情を受けて育った子供は、学校でも友人に自分が受けてきたのと同じように愛情を与えることができると思う。その結果、他者との関係が良好になることにつながり、社会での生き方を身に付けられると思う。

講評

可もなく不可もなくといったところ。構成、流れはO.Kだが、一番大事な、主張が一般論であり独創的な着眼的に欠ける。一般論を記述してもいいのですが、その場合、根拠・理由がさらに大事になりますが、その根拠・理由が弱いのが、今回の論文の最大の問題点です。厳しい言い方になりますが、小学生でも、「家庭での愛情が大事→それが学校教育・現場でも生きてくる」などは言えよう。

着眼点のコツ

  • 自分の視点(経験)だけで書かない。今回の場合、きっと佑奈さんは、愛情を受けて育ったのだろうということはわかるのですが、現在、昔ほど愛情を受けて育っている子どもは、少なくなっている。
  • 過去、現状、未来の視点をもつ。
  • 自分とは反対の意見を考えてみる。その反対の意見の良さは何だろう。
  • 課題を見つけ、解決策(具体策)論じてみる

考察

家庭では、どんな時でも自分の味方をし、無条件に自分のことを愛してくれる家族に囲まれている。家族団らんの時間はもちろんのこと、悪いことをして叱られた時にも強く、家族の愛情にふれることができる。

どんな時も本当に見方しているのだろうか?→児童虐待の増加している現状をどうとらえているか?
共働きが多い家庭環境の中、家族の団らんを持てているのだろうか?

原案をもとに、たとえばの着眼点の案

家庭教育では、親が子供に対して無条件の愛を注ぐことが大事だと思う。この愛が、学校でも他者との関わりをよりよいものとする潤滑油となる。しかしながら、現状、家庭教育が十分に行われていないように思う。ほとんどの家庭が共働きとなり、家族の団らんはおろか、一緒に食事もできないといった状況がある。このような状況の打開策として、家庭教育の枠組みを地域教育に拡大するという試みを考える。(以下略)

道徳教育の在り方

<問1 原文>
人間とは何かという問いに正確に答えるのは不可能であるが、自らを意識して生きようとするかぎり、人間はこの問いを避けることはできない。人間とは、善事をおこないつつ、しらぬうちに悪事をやってのける矛盾に満ちた存在であると同時に、「善く」生きようとする存在、「善さを求めて生きている」存在である。

<問2 原文>
私は、道徳教育とは、人間に対して善悪について判断できるようにし、善を追求していく教育活動だと考えている。人間が、「善く」生きようとする存在であり、「善さを求めて生きている」存在であると捉えられるので、道徳とは何かを考えることが、人間とは何かを考えることになるのだと思う。人間が「善く」生きようとする存在であるので、人間の教育は、目的としての「善さ」があって「教え育てる」ことだと思う。よって、道徳教育は、反社会的な集団において犯罪的な方法を教えるというようなことではなく、人間に対して善を追求していくようにする教育活動だと考える。

講評

問1は、よりよくまとめられています。まとめや要約については、いつもできていると思います。

問2は、一般的な論の展開なので、根拠と理由を鋭く論じていきたいわけですが、うわべだけをを羅列している印象になっています。また作者と同じなら(似ているな)、そのように表明してもいいですね。

アドバイス

「善」をどう捉えているかも表現してほしかった。佑奈さんにとっての「善」はなんだろう?
昨今の道徳教育は押し付けになっていないだろうか。「善」となる答えはいつも一つだろうか? これまでの時代はそれでよかったかもしれないが、これからは違うなど論を展開するなど、「視点」「歴史背景」「善と道徳というそのものの意味をどう捉えているか。」を意識したものであったらよかったのかな。

新たな視点

  • 道徳は、社会(ほとんどの人)が、善いとする考え
  • 倫理は、自分が、善しとする考え

という考えを持っているので、道徳教育の中には、倫理観を養う授業を取り入れるべきだという方針。

20世紀は、集団の時代で横並び、中流意識、同調圧力いったことからみんな一緒の時代(一人ひとりがみんなと一緒がいいと思っていた時代)でしたが、21世紀は、個の時代。個の時代とは、誰と働き、どんなコミュニティに属するかなどの選択を、個が主体となって生きる時代。ゆえに、一人ひとりの倫理観が大切なのだと思う。

読み聞かせ

問1 本の読み聞かせが自分で読める子どもにも必要であるという理由について、筆者の考えに基き、200字以内で述べなさい。
問2 筆者の考えをふまえながら、子どもたちの読書生活を豊かなものにするために、教師が留意するべきことについて、あなたの考えを400字以内で述べなさい。

問1 原文

本の読み聞かせが自分で読める子どもにも必要である一つ目の理由は、読む力に合った内容以上の本にふれることができ、子どもの知的な冒険心を満足させることができるからだ。二つ目の理由は、子どもより人生経験が長い大人の表現力が声を通して子どもにそのまま伝わり、本を深く味わう力が身につくからだ。

問2 原文

私は、子どもたちの読書生活を豊かなものにするために教師がするべきことは、二つあると思う。
まず一つ目は、子どもがくりかえし読むに耐えられるほどのお気に入りの本を見つけられるように導くことだ。子どもがくりかえし読んで、深い関わりをもつことができる本に出会うことは大切だと思う。子どもがお気に入りの本に出会うために、私は、子どもを図書館につれて行ったり、読み聞かせなどをしたりして、子どもを本にふれさせる機会をつくる必要があると思う。
次に二つ目は、子どもが何度同じ本をもってきても、つき合って読んであげることだと思う。同じ本をくりかえし読むことは、子どもにとっても大切で、幸せなことだ。子どもが同じ本を何度ももってくることにうんざりせず、その都度一緒に楽しみ、一緒に新しい何かを発見する姿勢をもつべきだと思う。

講評

問1は、少し問題の意図からズレている。

読み聞かせをさせる理由として、

①耳でことばを聞いて理解する能力が目で理解するより数段先に行っているから、子どもの成長の最先端をいく内容の本にふれられるから
②本の内容だけでなく、そこにこめられた読み手の心の動きや本の味わい方を受け取ることができるから

読み聞かせは、成長が早い耳という機能を使うことができる点において優れているわけですね。

問2は、これまでと同じで当たり障りのない文章です。一般論過ぎます。一般論は、その根拠や理由が大事なのですが、それも、中学生でも思いつくようなもので、さらに評価は下がってしまいます。また、問2は、大切、大切だと連呼していますが、なぜ大切なのかを出題者(採点者)は知りたいのです。もっと深く、鋭さが必要です。

深堀りアドバイス

  • 「子どもがくりかえし読んで、深い関わりをもつことができる本に出会うことは大切だと思う。」なぜ大切?
  • 「子どもを図書館につれて行ったり、読み聞かせなどをしたりして、」→教師がそこまでしないといけない?
  • 「同じ本をくりかえし読むことは、子どもにとっても大切で、幸せなことだ。」→なぜ大切?

一般的に、自分の意見を述べた時は、理由がいりますね。

たとえばの視点・着眼点

教師が、留意すべき点として、

  1. 家庭でも読み聞かせができるように宿題の出し方の工夫が必要。→学校の中での時間は限られます。それを補うために、家庭での時間が必要です。昨今は、共働きも多いので、教師自身の声を録音したものをデジタル機器で共有するのもその一つ。
  2. 教師は、教科書の音読の際には、俳優になりきる。→声の中に自然に表出される読み手の読解力,解釈,表現力などが,そのまま聞き手に伝わるから。
  3. 教師自身が、本が好きであることが大前提。→読み聞かせも当然ながら、他の教科と同等で、それが「好きな人から」学ぶことが子どもたちにとっては不可欠。

などなど、たくさん独自の視点が出てくるのではないか?
書きやすい内容のものほど、いきなり書き始めることなく、熟考したほうがいい。

視点を広げるコツ

  • 過去・現在・未来など時間的視点。→過去はこうだったが、今はこうだ。未来はこうなる。そんな視点からとらえなおす。
  • 立場。→「教師や生徒の立場」「社長と社員の立場」「男と女」などのように立場を変えた視点を持つ。今回の問2であれば、教師が留意すべきことでしたが、ベテランの教師、新人の教師で留意すべき点は違うかもしれない、男性教師、女性教師でも違うかもしれない。また、昔の教師と現在の教師でも違うかもしれない。録音をして共有などは、現代の教師だから気軽にできることですよね。
  • 角度。→自分の思った意見と90°(ちょっと違う)、180°(真逆)意見の良さは何かと思い浮かべる。

など。

政治思想

 私は21世紀を生きる思想家です。未来からやってきた使者として、2人に意見を述べます。私が生きる時代の世界は「多様性を生かした社会」です。だから、ミル氏の考えに近いと言えます。具体的には、多様化した世界は、自国だけを中心にするのではなく、国境を越えて他国の影響を強く受ける世界になっています。2人の住むイギリスも、他国との協働で、大きく進展している国のひとつです。なぜなら、イギリス人の持つ一人一人の個性を生かし、産業や科学技術の改革に取り組んだからです。
 確かに、スティーヴン氏の「個性はときに悪用されるから画一化すべきだ」という意見もあります。しかし、他人を傷つけるような個性の悪用は、法で罰せられます。また、道徳教育によって、そのような人は少数派です。
 このような現実をもとに、私は多様性を尊重するミル氏の意見に共感します。

講評

なんとか乗り切れる内容かどうかというところ。歴史的にみて、社会は、「ミル」の思想を受け入れたので、ミルの立場を支持したことは、多数派なので常識ある人間として評価されるのではと思います。

しかしながら、

①他国との協働 というのをどう評価されるか?結局、イギリスは、植民地政策や保護貿易で、大きな財をなし、その財を産業・技術革新に投資して大きくなったというのが事実。

②「個性はときに悪用されるから画一化すべきだ」とあるけど、スティーヴンはそんなこと言っているかな?ちょっと論理が飛躍されているような?

歴史認識

資料1、2には「国際法に戻らざる限り」や「国際条規の範囲に於いて」等の記載があるのに対して、資料3には国際的に定められたルールの遵守に関する文が述べられていない。このことから、戦勝国としてアメリカやイギリスと同等の国際的地位を確立していた日本が、物腰を低くして法の遵守を誓う必要がなかったこと、そして戦争に勝つためには手段を問わずに戦おうとしていたことが考えられる。
また、資料1の文書の登場人物は皇帝・百僚有司だけであるが、資料2には陸海軍、そして資料3には衆庶までもが加えて記載されている。このことから、戦争の規模の拡大に伴い、第二次世界大戦では全国民を巻き込んで、国家総動員で対戦に挑んだことが読み取れる。
上記のように、日本の国家と戦争は、国家の権力の増大や技術革新により激しい戦争の結果として、日本は多くの命を犠牲にして敗戦国になったという歩みが考察できる。

講評

読み取り自体はいいですが、赤の部分は、歴史的事実(背景)から程遠いものであり減点されると思います。ここは、自分の考えでなく、忠実に歴史的事実を記述すべきだったでしょう。資料3の1941年頃、日本は、攻めざる負えなかったということでしょう。日清・日露戦争に勝利し、その後、南下政策(東南アジア支配)をとるわけですが、アメリカをはじめとして欧米諸国からの反発が強く、現に石油など供給をストップされるなど、四面楚歌の状態だったわけです。世界は、第一次大戦後は、軍縮に向かっていたのです。
ですので、資料3に、国際法の記述がないのも、日本にとって、欧米によって都合よく作成された国際法に従う余裕なんてなかったんですね。

国の社会システムのあり方

国という単位に分かれて暮らすことは、地球人の生き延びるための知恵だからです。宇宙人はテレパシーを使えるため、相手との距離がどれだけ離れていても関係なく、宇宙人同士で完璧に意思相通が図れるかもしれません。しかし我々地球人は、そのような手段と才能を持っていません。コミュニケーションツールとしてSNS等があるものの、相手の表情や場の空気は直接会わないと読み取り難く、そこから喧嘩や戦争に発展してしまうことが多々あります。加えて、地球全体に目を向けると190を超える国々があり、それぞれ言語や文化も違うので壁は大きく尚更です。環境や文化、資源等の違いを生かして、それぞれの国で、ある点では競い合い、別の点では協力し合いながら今日まで大きく成長を遂げたのです。だから小さなコミュニティとして一つの国があり、地球人は少数団体のなかでの暮らしを好みます。

講評

可もなく不可もなくといった感じでしょうか。着想がイマイチでしたね。(下記の(例)参照)。また、「宇宙人はテレパシーを使えるため」は、論理が飛躍しているのも気がかり。テレパシーが使えるかは、証明されたわけでもないですね。

一つの視点

法学部ということから、歴史から紐解き、法律(きまり・約束ごと)が確立されたという展開が望ましいのではないかな。

<例>
人間は、生物学的に一個体としては極めて脆弱な生物である。よって、人間は共同生活をして、種を残すことを選択した。縄文時代は、狩猟、縄文時代は稲作と集団で食料を確保してきた。その中で、リーダーが生まれ、集団生活を可能にするルールを確立した。これが今では、国単位としての集団となり、自国には憲法を定め、外国とは条約を結び社会システムを構築してきた。このような仕組みのなかで、地球人である人間は種を残すことに成功した。

簡単にですが、このような流れもあったね。法学部なので、「法律」「政治」というカテゴリーを歴史的視点、倫理的な視点などから捉えることを頭の片隅においておくといいでしょう。

参考文献として、「ホモサピエンス全史」がおすすめ。

健康管理

グラフ②より、自動車保有台数は1980年から2005年の25年間で約二倍に増加している。またグラフ③より、コメの消費量も約25%減少したことが分かる。さらにグラフ④からは、男性肥満者数が年々上昇しており、増加数はおよそ800万人にも及ぶ。そしてグラフ①より、糖尿病の患者数は、25年間で約2倍も増加したことが読み取れる。
このことから以下の仮説が立てられる。まずグラフ①、②の読み取りから、経済成長により自動車が普及し、また欧米化により洋食文化が入ってきたことが考えられる。その結果、運動不足と高カロリー摂取の食生活により、グラフ③からも分かるように、肥満者が増えたのだろう。そして、肥満者の増加により生活習慣病にかかる人が増え、遺伝による生まれつきのⅠ方糖尿病ではなく、生活習慣病などが原因で発病するⅡ型糖尿病患者が増加したと考えらえる。
以上を、4つの現象を同時に説明した私の仮説とする。

講評

概ねいいですね。読み取り型が、何度も言っていると思いますが、失点しないことですね。しかしながら、「なぜわざわざグラフ④の男性肥満のグラフがあるのでしょうか。」この点を考慮したかったですね。車は購入するのは、男性が多く、グラフ①より日本人自体の肥満は高止まりしているにも関わらず、グラフ④において男性の肥満は増加しているのではないだろうか。

民主主義のメリット

「自分の人生を、自分のために、自分で選択して、自由に生きていくことができる。」これは、民主主義があるから私達の人生に保証されている。そしてあなたが18歳になったとき、国のリーダーたちを選挙で決めて、日本をどのような国にして、どのように生活を豊かにしていくかを決める権利が与えられる。つまり、みんなで物事を話し合って進めていくから、国民一人ひとりが大切な主役なんだよ。

だけど、昔の日本は違ったんだ。生まれた時から自分の身分や職業は決まっていて、1番偉い地位の人の言うことが絶対の世の中だった。当然、一般市民が反論したり従わなかったりしたら罰を受けるし、自由は大きく制限されていたんだよ。

あなただったら、どっちの環境で暮らしたいかな。きっと現代の自由で平等な世の中の方が幸せだよね。民主主義の望ましい点は、誰もが自分のために、自分で選択して、自由に幸せを追求して生きていくことができるところにあると、私は思っているよ。

講評

  1. 題意から推測されるのは、「民主主義」への理解なのだろうと思われます。なので、「民主主義」の精神はもちろん、その「(政治的な)民主主義のしくみ」の良さまでもう少し深く言及できるとよかったでしょう。
  2. 昔とはいつの時代でしょう。江戸時代のことを指しているのかな?ここは具体的な時代を述べるべきだったかな。また昔と比べるより、北朝鮮や中東アジアなど民主化できていない国との比較ということもできましたね。
  3. 民主主義については、以下の<視点>も参照

学級経営

筆者の論述より、改めて集団における役割分担の必要性に気付くことができた。実際に学校の集団の中でルールや掟を制御する人や、厳しくて恐い役割を担う人は不可欠でると実感したことは何度もある。学生や社会人として社会で何かしらの役割を担っている私たちは、日常で集団として行動しなければならない時は多々ある。そのような場で、私たちはより良い集団にするため無意識に誰かに従い、あるいは無意識に集団を先導してしまう習性があるのだろう。しかし、作者(→筆者)が述べた「良質の不純な集団の中で人は初めて育つ」は規模が大きい集団でのみ成り立つと考える。小さい集団であれば、集団における物事が巡行に進むようにするため人々はまず、確執の発生を互いに拒否する傾向にあると思うからだ。そのため、一人ひとりが平等な位置関係を保とうとする。私自身も日常で様々な集団に属しているが、友人や家族という小さい規模の集団で誰かがその集団を政統する役割を担うのは稀である。そう言った意味で学校という場は比較的大きな集団であり、均一でない人々が集まるため、その違いを尊重する場に適当すると思う。

そこで学校を、「人が育つ集団」にするために指摘したいことが二点ある。一点目は現在、私の通う学校を含め多くの学校では、個々の成績に順位をつける傾向にあることだ。これには日本の学歴社会が影響しているのではないかと考える。そのため、生徒は生徒同士の競争心のみが深まり、学力の低い生徒は到底低い評価を浴びてしまう。つまり、学力をランク付けすることは互いを尊重するにほど遠い行為である。学校が良質で不純な集団として存在する以上、生徒が競争し合うのではなく共同して学力向上を図るべきであると考える。また、学歴だけでその人の人間性を評価せず、その人がもつ能力を発揮できる場を増やすなど、違った視点から人間性を評価する社会、脱学歴社会を実現する必要もあると思う。二点目は先生が指導する小学校での教育だ。私は小学生の頃、ほとんどの時間を先生の指示に従って過ごしていた。つまり、授業で自主的に学ぶことが少なかったのだ。感受性の豊かな小学生だからこそ、相手の違いに気付きそれを受け入れようとする。早いうちから自主的に集団を先導する力を身に着ける教育を早い段階から取り入れるべきであると考える。(954文字)

三段落目に、まとめがあるとよかった。

講評

もう少し深い考察が必要でした。2つの令普さんの指摘は、昔に比べると随分、緩和されたことでもあります。なので、違った視点として、「学年制度をやめる」「同調圧力をやめる」「当事者意識を根づかせる」などがあったかもしれません。

また、以下のようなことにも注意。

①細かな言葉使い方
②段落分けを明確にしましょう。段落分けは、行っています。(原文参照)
③最後に「まとめ(結論)」がないので、締まりが悪いです。

また、指摘(原因)だけでなく、より具体的な案があるといいですね。「人が育つ集団」は、学校にはないのだろうか。「現状でも、学校においても人が育つ環境は、こういう点ではある。しかしもっとこうすればより「人が育つ集団」としての学校になるのではないか」という展開もあったでしょう。

添削

×何かしらの役割 → 具体的には?  「何かしら」「様々な」など一括りして逃げてはダメです。
×多々 → これも同じです。 (例)災害が避難するときなど多々ある。
×作者 → 筆者で統一しましょう。
△平等 → 対等
×様々な → これも先述の通り
×政統 → 統率?
×家族 → 家族では、親が一般的に統率するのでは?
×そういった意味で → 一方で
×共同 → 協同

人が育つ集団

私は、著者の主張に賛成だ。厳しくて恐いベテランの看護師さんがいなくなることで病棟がもっと平和になり、のびのびしたいい雰囲気になると思っていたが、実はその看護師さんがいることによって、一人ひとりの役割にバランスがとれていた。また、学校の先生が皆優しければ、将来生徒が先輩や上司に叱られたとき、それを跳ね返す強さは育たなくなり、学校の先生が皆厳しければ、生徒は先生に相談できなくなる。これらのことから、集団は、不均一であることに意味があり、均一ではないお互いの役割を尊重し信頼することが求められているとわかる。私は著者同様、不均一である役割は、対立的なものではなく、両者がいることによって成り立つと考える。
私は、学校が「人が育つ集団」であるためには、一人ひとりが多様な価値観を受け入れ、自分とは異質であると思えるような人とも共生していかなければならないと考えている。それは、同じような人が集まると、役割のバランスがとりにくくなったり、集団間での衝突などが少なくなり、著者の体験談同様、不毛かつ人を育むことができなくなると思うからだ。しかし、現代の時代は、少数派の人や異質な人を排除しようとする動きが強いと思う。これは、少数派の人や異質な人が社会の中で孤立してしまうだけでなく、多数派の人も偏った価値観にしかふれられなくなったり、多様性を受け入れられなくなったりという面でも、問題であると思う。そこで、学校が「人が育つ集団」であるためには、「少数派」や、「異質」といった目をなくし、皆平等という考えをもつことが課題になってくると思う。つまり、差別意識をなくしていくということだ。差別意識をなくすことができれば、「排除」という考えもなくなっていくと思う。

講評

一般論に終始するのはいいのですが、根拠や理由に説得力が欠ける。まだ、うわべだけの論文です。尊重する、多様性を認める、差別をなくすとか、どこでもあるような意見で、それはそれでいいのですが、なぜ大事なのか?皆、そう思っているのになぜそんな社会が実現できないだろう?そういう点を織り込むことが大事です。

①「現代の時代は、少数派の人や異質な人を排除しようとする動きが強いと思う。」とありますが、たとえば?

不均一であること、多様性が大事なのは、昔に比べると緩和されつつあるのでは?インターネットの普及により、小さな声も拾えるようになったのでは?マイノリティの人たちの声が聞こえてきませんか?政策を見ても、同性愛の結婚、バリアフリーの拡充、外国人に配慮した標識・アナウンス、里親制度の普及、女性の社会進出などなど数知れません。

②差別意識は、どうすればなくなるの? 具体性がほしいところ。 差別をなくせばいいなどというのは、当たり前でしょう。なぜ差別がなくならないのか?という点において、意見が聞きたいのです。

こんな視点もある

①「人が育つ集団」は、全員参加型であることがその前提にあると考える。たとえば、学校の授業を考えてみる。授業は、先生がするものだと思われがちだが、生徒も一緒になって授業を作るという視点があれば、おのずとその集団である学級は成長していくだろう。それは、生徒が自発的に参加しているからだ。

②「人が育つ集団」は、当事者意識をそれぞれが持つという集団であると言える。ここで述べる当事者意識は、「どんな時・状況も、自分にできることは必ずある」という意識だ。この意識があれば、自分とは価値観が違う人がいる集団においても、その人や集団に対して、自発的な行動が起こせるだろう。それぞれが当事者意識を持つということは、支え合うことになる。それが認め合うということにもつながっていくと考える。

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