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【高校日本史】平城京のようすの要点ポイント

【高校日本史】平城京のようすの要点ポイントです。大宝律令を施行した文武天皇が若くしてなくなったあと、その母が即位して元明天皇となると、710(和銅3)年に平城京をきずき、藤原京からここに都を移した。これは律令国家の成長にあわせ、水陸の交通が便利で、宮都にふさわしい土地だったからだと推測される。以後、都が平安京(京都)に移るまでの80年あまりを奈良時代という。

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平城京のようす

政府はその前後から支配の領域の拡大につとめた。まず8世紀初め、東北地方では陸奥国と越後国をわけて出羽国をおき出羽柵・多賀柵(のちの多賀城)などを設け、同じころ九州南部でも、日向国をさいて大隅国を設け、多執島(種子島)なども領土に編入した。以上のように。蝦夷や隼人に対する統治もされた。平城京の市は官営で、東西の市司が管理していた。

  • 市司…平城京の左京・右京に設けられた市を監督した。
  • 衛士…諸国の軍団から都に上京し、宮門の警備を行った。

金石文や平城京などの古代の都城遺跡から多数発見される木簡によって、史書に記されていない歴史的事実を知ることができる。

秋田城

秋田城は8世紀前半の天平年間に、蝦夷支配の拠点の一つとして 出羽国に設置された。東北地方の陸奥・出羽両国には、蝦夷の勢力を支配するために、秋田城のほか、多賀城・胆沢城がつくられ、多賀城には鎮守府が置かれた。薩摩・大隅地方の人はしばしば中央政府に反抗したが、8世紀前半には最終的に鎮圧された。 蓄銭叙位令を出した元明天皇は、皇位を娘に譲った。海路で唐に渡る場合、7世紀には、朝鮮半島沿岸を通る北路が使用されたが、8世紀には、新羅との関係が悪化したので南路をとった。 遣唐使が渡航に用いた経路では、南路は北路に比べて航海上の危険性が大きかった。

長屋王

長屋王は親王(天皇の子や兄弟)と記されているが、天武天皇の孫であり、藤原不比等の死後実権をにぎったが、天皇家と結びつき勢力を拡大した藤原四子と対立し、策謀により自殺させられた。1988年、平城京の邸宅跡から大量の木簡が出土したが、その記
録から邸宅の主は長屋王であることが判明した。 長屋王政権の下で、口分田不足を補うため、百万町歩開墾計画や、三世一身法がだされた。

  • 三世一身法…未開地を開墾した場合は三世にわたり、既墾地を開墾しなおした場合には本人一代にわたりその保有を認めた。

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