【日本史】院政と平氏政治のテストに出るまとめ

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【日本史】院政と平氏政治についてまとめています。

院政

関白藤原頼通の娘に皇子がうまれなかったことから摂関家を外戚としない後三条天皇が即位した。天皇はみずから政治をとる意欲にもえ、 1069(延久元)年に荘園整理令をだし 記録荘園券契所(記録所)をおいて、不法な荘園を禁止しようとした。宣旨枡という統一的な枡を定めた。 平安時代中期以降、後三条天皇は大江匡房らを登用し、国政の改革を行った。

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荘園整理令

荘園整理令はその名の通り、荘園を整理して班田の励行を図る。書類に不備がある荘園や、正式な手続をふまずに設立された荘園を没収して公領とした。

院政期

院政期には、成功や重任が盛んとなり、知行国制も拡大した。荘園の寄進が院に集中するようになり、摂関家をしのぐ勢いを見せた。摂関家におさえられていた中下級貴族や受領らが、院の近臣を形成した。

白河上皇

白河上皇は自分の心に従わないものとして、賀茂川の水、双六の事の目とともに延暦寺の僧兵をあげた。平治の乱で勝利を収めた平清盛は乱後、後白河院政のもとで中央政界での地位を高めた。

平氏の栄華

平氏は諸国の武士団の組織化に力をつくしながら、多くの荘園や知行国を手にいれて富をたくわえた。また平清盛は日宋貿易に力をいれて、 瀬戸内海航路をととのえ、大輪田泊(現、神戸港)を修築し,宋の商船を畿内にまでひきいれた。宋からの高級織物や香料・書籍などの輸入品は、平氏の富をさらに大きく貢献した。

こうした武力と富によって平氏は後白河上皇につかえ、ついには平清盛が太政大臣になったのをはじめ、一族も高位高官につき、平清盛の娘徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となって、平氏にあらざれば、人にあらずとまでいわれるようになった。だがこの平氏政権も、武士の政権とはいえ、それまでの朝廷の 支配機構をそのまま利用してきずかれていただけに、平氏によって圧迫された旧勢力の強い反発をうけた。

平清盛

平清盛は太政大臣に任命され、その一族も高位高官に昇った。大輪田泊の修築を行うなど、日宋貿易を奨励した。13世紀中頃から借上を金融業者として、米銭の輸送または賃借に為替という決済手段が用いられた。

後白河上皇

後白河上皇の時期には、鹿ケ谷事件(鹿ヶ谷の陰謀)が起き、藤原成親が俊寛とともに処罰された。 11世紀には、上級貴族や寺社は知行国主として一国の支配権を与えられ、国守には国主の子弟が任命された。

院政期の文化

古代日本では、中国の影響を受けて国家の事業として歴史書の編募が行われた。平安後期には、貴族社会において、『大鏡』などの歴史物語も作られた。

絵巻

11~12世紀には絵と詞書からなる絵巻物が描かれ

  • 応天門の変を題材にした「伴大納言絵巻」
  • 庶民の生活・風俗を描いた 「信貴山縁起絵巻」

などが作成された。

文学作品

  • 今昔物語集…今昔物語集からは、平安時代の人々の生活をうかがうことができる。
  • 陸奥話記…前九年の役の経過は、院政期に著された軍記物『陸奥話記』に述べられている。
  • 梁塵秘抄…後白河上皇は、今様を愛好し、『梁塵秘抄』を集めて握した。

寺院

平安時代中期以降、院は大規模な寺院や離宮などをさかんに造営した。院政時代、上皇は造寺・造仏を行うとともに、たびたび熊野へ参詣した。 12世紀前半、藤原清衡によって建立された中尊寺金色堂は、藤原氏滅亡以後も、現在に至るまでそのきらびやかな姿を伝えている。

  • 中尊寺金色堂…地方に伝わった浄土教の影響を強くうけた建築 物である。
  • 阿弥陀堂…院政期には奥州藤原氏によって、平泉に阿弥陀堂を中心とする寺院が建立された。
  • 厳島神社…平安時代末期には、平清盛ら平家一門が、厳島神社を信仰し、華 麗な装飾をほどこした経巻を奉納した。

『扇面古写経』や『平家納経』は、院政期に書かれた作品である。もとは寺社の祭礼などで興行された滑稽を主とする雑芸であった。 能の源流の一つである田楽は、古くから農村の庶民の間で親しまれ、各地の祭礼で演じられていた。

日本史 前後の復習

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