【日本史】寛政の改革(松平定信の政治)

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【日本史】寛政の改革(松平定信の政治)についてまとめています。

寛政の改革

江戸時代後期、農村では、田畑を手放して小作人となる農民が増加した。佐倉惣五郎の伝承に知られるように、処刑された一揆の指導者の中には代表越訴一を指導した義民として崇められる者がいた。19世紀には、村役人の不正追及などを内容とする村方騒動が各地で頻発した。摂津・河内・和泉の1000を超す村々の農民たちが、綿や菜種の自由販売を求めて国訴を起こした。 江戸時代後期、大坂周辺の農民は、特権商人による綿などの流通独占に反対して、大規模な訴願闘争を行った。享保の飢饉や天明の飢饉などに際して零細な暮らしをしていた町人が行った反抗運動を、打ちこわしという。

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商業

18世紀半ば以降、藩の中には藍や紅花などの特産物の生産を奨励し、またその流通を独占するため、専売制を実施するところも あらわれた。藩の中には財政難の解消をはかったり通貨量 を増やしたりするために、独自に藩礼を発行するところもあらわれた。 薩摩藩は奄美三島を支配して、砂糖を生産させ、また琉球を通じて中国と密貿易を行った。

藩政改革

18世紀末には、幕政において松平定信により寛政の改革が行われ、諸藩でも18世紀後半から幕末にかけて藩政改革が実施された。18世紀には、秋田藩で藩主の佐竹業種が荒廃した農村の復興と特産物生産を奨励し、藩学(藩校)を振興した。肥後熊本藩では細川重量が、米沢藩では上杉治憲(鷹山)が、藩経営に成功して名君とされた。

社会の治安維持のために、江戸石川島には、無宿人らを収容する人足寄場が設置された。寛政の改革で白河藩主松平定信は、老中就任中に旗本、御家人の救援を目的として、借金の破棄、または利下げを命じる業指令を出した。江戸で町入用を節約させ、七分積金を行わせた。飢饉に備えるため、米穀の貯蔵を命じた。天明の大飢饉では、貧しい農民が増大していたために、東北地方を中心に多数の餓死者がでた。

徳川家斉から将軍補佐に命じられた松平定信は、1789年、墓領・大名領を問わず、全国の孝行者・忠義者などの調査を行い、全国の民衆教化のために『孝義録』を編集した。

対外関係の緊迫を説いて海防の重要性を主張した林子平は、蟄居(禁固)に処された。渡辺華山が幕府の対外政策を批判して、『慎機論』を著した。 山東京伝は、寛政の改革の風俗統制を受けて処罰された。

まとめ

老中の松平定信の倹約政策。

  • ききんへの備え…各地に倉を設けて、コメをたくわえさせる。都市に出てきた農民を故郷に帰すなどした。
  • 朱子学以外の学問の講義を禁止
  • 藩札…財政難に苦しむ諸藩が発行した藩独自の紙幣。

寛政の改革は、厳しい政策が多く、人々の反感をまねいた。

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