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【高校日本史】化政文化の要点ポイント

【高校日本史】化政文化の要点ポイントです。

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化政文化の概要

文化・文政期に江戸を中心に発達した文化。

化政文化期の教育

シーボルトは長崎郊外に鳴滝塾をひらいて医学の講義や実際の治療を行い、多くの人材がここで西欧の医学や博物学を学んだ。ドイツ人医師シーボルトは、帰国時に持ち出しを禁じられた日本 地図などを持ち出そうとして、国外追放となった(シーボルト事件)。19世紀前半、シーボルトが最新の日本地図を国外に持ち出そうとした事件で、幕府の役人高橋景保が処罰された。

  • 緒方洪庵…適塾(適々斎塾)を設立し、蘭学が教授。多くの人材を輩出した。

心学は、儒教道徳に仏教・神道の教えを取り入れてつくられ、商人の商業活動を正当なものとして認めた。心学は、倹約・正直などの徳目を庶民に説いた。手島堵庵は、庶民の生活倫理をわかりやすく説く心学の普及に努めた。

18世紀末、幕府は聖堂付属の学問所で生子学以外の学間を教えることを禁止し、さらにその後、学問所を幕府の学校とした。 江戸時代の中期以降に発達した藩校は、藩士の子弟の教育機関あった。

大坂の町人によって設立された懐徳堂は、山片蟠桃ら多くの町人学者を生みだした。る。

化政文化期の学問・思想

開国による重商主義的国営貿易による富国策を主張した本多利明は、『西域物語』や『経世秘策』を著した。近世中期、安藤昌益はその著『自然真営道』において、万人直耕の自然世を理想とすることを説き、身分制を強く批判した。 三浦梅園は、儒教と洋学を取り入れた条理学を唱え、『玄語』などを著した。

  • 山県大弐…尊王論の立場から幕府を批判して処罰された。
  • 竹内式部…京都の公家に尊王論を説いて処罰された。

水戸の会沢安(正志斎)は、尊王攘夷論を主張した。会沢安(正志斎)や藤田東湖は、水戸学の発展に大きな役割を果たした。

  • 佐藤信淵…産業の国営化と積極的な海外進出をとなえ、強力な統一国家の形成を主張し、『経済要録』を著した。
  • 工藤平助…開港の必要性を論じて『赤蝦夷風説考』を記し、暇夷地開発を主張した。
  • 林子平…『海国兵談』を執筆して、江戸湾の防備が手薄なことを指摘し、ロシアの南下に警告を唱えて海防論を展開したが、寛政の改革で処罰された。

化政文化期の文学・芸能

『仮名手本忠臣蔵』の作者は竹田出雲である。近世中後期、菅江真澄は民衆の生活に関心を向け、『菅江真澄遊覧記』として信濃路から蝦夷地までの膨大な紀行日記を残した。江戸時代後期、鈴木牧之は、雪国の生活や風俗を『北越雪譜』に描写した。

  • 小林一茶…『おらが春』を著した。
  • 恋川春町…代表的な黄表紙に、『金々先生栄華(花)夢』がある。
  • 滝沢馬琴…『歴史を素材とした南総里見八犬伝』など の読本が出版され、広く読まれた。

庶民文化に対する幕府の弾圧例の代表的人物として、洒落本作家の山東京伝 や浮世絵師の喜多川歌麿らが挙げられる。『春色梅児誉美』『春色梅暦』を著した人情本作家の為永春水は、天保改革期に、風俗を乱したという理由で処罰された。大田南畝らは、滑稽味のなかにも世相風刺をこめた狂歌を作った。 式亭三馬は滑稽本がさかんに出版されるなか、『浮世風呂』など、を書いて活躍した。

都市を中心に賃本屋が現れ、文化の普及に寄与した。出版物や貸本屋が普及する中、黄表紙と呼ばれる社会風刺や滑稽さを織りまぜた大人向けの絵入りの小説が盛んに作られた。河竹繁栄の弥は歌舞使作者として活躍した。

化政文化期の美術

  • 池大雅…与謝蕪村とともに『十便十宣図帖』を描いた。
  • 司馬江漢…西洋画の技法により銅版画を制作した。
  • 亜欧堂田善…西洋画を修得した。
  • 葛飾北斎らにより風景版画が出版された。その代表作に富嶽三十六景がある。

江戸時代の大首絵は、上半身を大きく描く様式で、大首絵の画家としては、東洲斎写楽が著名である。幕末に輸出された浮世絵は、ヨーロッパ印象派の画家に影響を与えた。

江戸時代後期には伊勢神宮への参詣が盛行し、数百万人の参宮者があったという。 近世には寺社参詣や巡礼にあたっては、講という組織が結成されることがあった。信仰のための組織として、庚申講などがつくられた。江戸時代後期の四国遍路は、信仰上の目的だけでなく、遊興をともなう旅の名目ともなっていた。江戸時代の中期以降、「ええじゃないか」を連呼して乱舞する民衆の運動が起こった。近世の夏の祭礼の盂蘭盆では、鎮守の森などで盆踊りが催された。

化政文化期の民衆文化の成熟

葛飾北斎や歌川広重らの絵師は、主要街道の風景ばかりでなく、江戸・大坂の庶民生活や全国の景勝地をシリーズにした作品も描いている。安価な刷絵も普及し、それらに印象を受けた人びとは各地への関心を高めていった。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』 などの道中記は読者に対して街道の様子を伝え、旅の日程の情報も与えた。人気の高まりの背景には、寺子屋の教育による識字率の上昇や貸本屋による書物の普及があった

「かぶき者」は、徳川綱吉による取り締まりの強化から、次第に姿を消していった。元禄時代の将軍・徳川綱吉は、既存の法令や判例を集大成したり して(天和の武家諸法度など)、その治世の初期は、「天和の治」 とよばれる文治政治を推進した。朱子学を官学とし、湯島に聖堂を建立した。

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