【日本史】執権政治

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【日本史】執権政治についてまとめています。

執権政治

1219年には、鶴岡八幡宮において3代将軍源実朝が頼家の遺児公暁に暗殺され、源氏の正統が断絶した。源頼朝の血筋が断絶した後には、摂関家出身の条親子が新しい将軍として鎌倉にむかえられた。

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北条政子

北条政子は、父の北条時政とはかって将軍源頼家の親政を停止し、有力御家人による合議制を進めた。

北条泰時

3代執権の北条泰時は、有力御家人や政務にすぐれた人々を選んで、評定衆を創設した。

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇は西面の武士を設置して、軍事力の増強をはかり、権力の回復につとめた。源実朝の死後、後鳥羽上皇は承久の乱を起こした。承久の乱の結果、後鳥羽・土御門・順徳の三人の上皇が配流され、仲恭天皇が廃された。

六波羅探題

承久の乱後には、幕府は京都守護にかえて六波羅探題を設置して、西国の御家人を統制すると共に、朝廷の監視を行い京都の整備にもあたらせた。 幕府はそれまでの本補地頭に加え、新たに新補う地頭を設置した。また、新たに地頭の得分を定めた新補率法が定められた。新補率法は新補地頭にのみ適用された。

白河上皇以来続いてきた院政という政治形態は、承久の乱後も継承された。

御成敗式目

御成敗式目は、源頼朝以来の先例や武家社会の言に基づき、権勢の有無にかかわらず公平に裁判するために制定された。鎌倉幕府は御成敗式目を基本法題とし、その後は必要に応じて御成敗式目に対する追加法という形で新たな立法を行った。

北条時頼

北条時頼は、1252年に宗尊将軍として鎌倉に迎えた。北条時頼は、裁判の迅速化をはかるため、評定衆の下に新たに引付宗衆を設置した。鎌倉時代には、幕府は引付において定し、評定の議を経て判決を下した。

北条時頼が執権の時代、宝治合戦によって三浦泰村が滅ぼされた

鎌倉時代のくらしの様子

鎌倉時代には、荘園領主への年貢を、現物の代わりに電幣で納める銭納も行われた。 鎌倉時代後期以降は、一定の年貢納入のかわりに荘園の支配をおこなうようになっていった。地頭と荘園領主の紛争を解決するために、荘園の土地を分割する事が行われることもあった。 荘園領主のなかには定によって一定額の収入を確保しようとするものもいた。

あわせて確認

以上が、【日本史】執権政治となります。

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