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【高校日本史探究】室町時代の要点ポイント

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【高校日本史探究】室町時代の要点ポイントです。

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室町時代

1392年、足利義満は、南朝の後亀山天皇によびかけて南北朝の合体を実現し、南北朝の動乱に終止符を打った。将軍足利義満の仲介を経て、南朝の天皇が北朝の後小松天皇に位を譲り、南北両朝が合体したことで、幕府の全国支配が完成した。足利尊氏は、後醍醐天皇の冥福を祈るため天竜寺建立を計画し、造営費の調達のため天竜寺船を元に派遣した。

室町幕府のしくみ

室町幕府は、守護の権限に使節遵行も加えさらに半済令によって守護が荘園・公領の年貢の半分を兵狼米として徴収することを認めた。鎌倉公方は、南北朝時代から室町時代にかけて東国を支配した鎌倉府の長であり、足利尊氏の子孫によって世襲された。

■ 室町幕府の役職

  • 管領…将軍の補佐役。有力な守護が任命されました。
  • 侍所…京都を支配し、御家人を統率しました。長官には有力な守護が任命されました。
  • 鎌倉府…鎌倉に置かれ、関東の支配にあたります。

室町時代の守護

地方の守護は、国司の権限を吸収しました。国内の武士をまとめ、独自の支配をするようになりました。武士の中には城や館を築いて領地の支配を強め、一揆をおこして守護大名に対抗するものもいました。

  • 使節遵行権をもち、所領紛争などについて幕府の裁判の判決を強制執行した。
  • 刈田線畜検断権をもち、一方的に作物を刈り取る実力行使を取り締まった。
  • 守護請として荘園や公領の年貢徴収を請け負っていた。
  • 守護の中には、従来の国衙の機能を吸収して、任国内 に独自に段議を賦課する者もいた。

室町幕府の財源

室町幕府の財源は、諸国にちらばる直轄領である御料所からの収入や守護や地頭への課税が基本的なもので、そのほかに段銭・棟別銭・関銭があった。

  • 段銭…田地1反単位、棟別銭は1軒単位で課された税。幕府はこれらを寺社の造営・修理を名目にしばしば課税し、その一部を収入とした。
  • 関銭…交通の要地におかれた関所の通行税である。

さらに幕府は京都で高利貸し業をいとなむ土倉・酒屋からの土倉役、酒屋役や、日明貿易の利益を重要な財源としていました。

室町時代の外交

室町時代、日明貿易には大内・細川氏が、日朝貿易には宗氏があたっていた。14世紀末以降、日朝間では対馬の領主・宗氏の管理下で、幕府、守護大名、国人、商人らが参加した貿易が行われた。1419年、朝鮮軍は対馬を倭寇の拠点とみなして攻撃した。これを応永の外窓とよぶ。このため、日朝貿易は、一時中断することになった(1423年に関係修復)。日本と朝鮮との間で公貿易が行われるようになると、朝鮮からは大蔵経(一切経)も輸入されるようになった。

日明貿易
日本国王が中国皇帝に臣従するという形式で行われた形式のため、朝貢貿易ともいわれる。一方で、日明貿易が、遣明船が明から公布された証票の持参を義務付けられて行われたことから、勘合貿易とも呼ばれる。

琉球では、15世紀の前半に、中山王・尚巴志が北山・中山・南山の3王国を統一し、琉球王国を建てた。一方、15世紀以降、北海道では領主とアイヌとの間で紛争が繰り返されたが、その中で最大規模のものはコシャマインを指導者とする蜂起(コシャマインの戦い)だった。

室町時代の一揆や戦乱

戦国時代には畿内を中心に窓村(窓)と呼ばれる自立的・自治的な村が数多く出現した。惣村では祭礼などの年中行事、用水や山林の管理について合議した。おとな(乙名、長)、惣旋(村症)、地下請(百姓請)などからは、室町・戦国時代における村落の自治の様子がうかがえる。

惣村では、神社の祭礼行事の組織として宮座が結成された。話し合いは寄合とよばれ、日常の村政にあたったのは、おとなや沙汰人などであった。 責任をもって年貢を徴収することを地下請、惣村が独自の警察権・裁判権を持つことを自検断(地下検画)といい、惣村内の秩序を維持するための規約(村症)が定められた。

正長の土一揆

正長の土一揆の様子は、『大乗院日記目録』の中に「土民蜂起これ初めなり」と記されている。正長の土一揆は、将軍足利義款が殺害されたあとの混乱に乗じて起こったもので、一揆側の攻勢のために、幕府はやむなく徳政令・を発布した。鎌倉公方らの反幕府の動きに危機感をもった足利義教は、守護や公家を統制して将軍権力を強化しようとした、

永享の乱

足利義教は、将軍に就任して以来、守護家の家督相続に介入したり、延暦寺を攻撃したりした。専制化をめざす将軍と鎌倉公方との対立が、永享の乱の起こる原因の一つであった。

結城合戦

1440年、結城氏が足利持氏の遺児を擁して挙兵したが敗れた。

応仁の乱

永享の乱以後、東国では鎌倉公方の子が、下総の古を本拠と応仁の乱が起きた一因には、将軍家や幕府の管領家の家督争いがあった。応仁の乱より前の時期には、京都周辺の農民などが徳政を要求して蜂起し、洛中洛外の土倉・酒屋・寺院などを襲撃して借金証書を奪った。

応仁の乱より後の時期には、京都では財力をたくわえた日蓮宗の信者が一向一揆に対抗したり、京都を戦火から守るために一揆を結んだりした。応仁の乱の後、公家の中には、戦国大名を頼り地方に下るものも現れた。応仁の乱より後の時期には、南山城で国人と農民が一揆を起こし、畠山両軍を撤退させて、その後8年にわたって自治的支配を行った。

加賀の一向一揆

加賀の一向一揆では、蓮如の布教により広まった一向宗の門徒が中心になって蜂起した。浄土真宗本願寺派の門徒が国人と結んで、守護の富樫政親を倒し、一揆による支配を約100年間行ったのである。中世の有力な寺社は本所として商工業者の座を支配するとともに膨大な荘園群を支配していた。

  • 馬借のなかには積極的に土一揆に加わり、徳政を要求するものもいた。
  • 土倉は室町時代、土一揆の襲撃対象となることがあった。

北山文化

鎌倉末期にめばえ、室町時代に開花した文化を、14世紀末、足利義満が京都北山につくった別荘にちなんで北山文化とよぶ。

別荘に建てられた華麗な金閣(鹿苑寺)の建築様式は、伝統的な寝殿造風に禅宗様が加わっている。将軍や守護大名の保護のもとにそだてられた北山文化は、公家社会の伝統と大陸文化とを基調にしたものであった。この時代にはまだ武家独自の文化はそだたず、武家の公家文化へのあこがれとともに、武家の奢侈的性格が色濃くでている。

北山文化は公家の文化と武家の文化と禅宗をはじめとする大陸の文化が融合した文化で、水墨画では明兆があらわれた。足利義満が京都北山に建てた金閣は、代表的な寝殿造と言議の折衷建築物である。

北山文化の時期には、周文雪舟らが墨の濃淡で自然や人物を象徴的に表現した絵画の世界を作りあげた。応仁の乱後の時期には、絵画で、狩野正信と、その子元信が出て狩野派を確立した。応仁の乱後の時期には、明から帰った雪舟が日本的な水墨画を描いた。

観阿弥・世阿弥父子は、室町将軍義満の保護のもとに、猿楽能を芸術性の高い演劇に大成した。室町時代初期には猿楽の座が各地で活発に活動するようになり、大和国では興福地・春日社に奉仕する大和四座が活動した。都で武家や公家にも認められた世阿弥は、能の理論書である『風姿花伝』を著し、幽玄の能を追求した。

南北朝・室町時代、武士や民衆によって生み出された狂言は、能の合間に民衆の日常的な口語で演じられ、風刺性のある喜劇として民衆にもてはやされた。

室町時代には五山の禅僧によって、五山版が出版された。義堂周信は足利基氏に招かれ、禅の指導のために京都から鎌倉へ、赴いた。禅宗の僧である桂庵玄樹は入明したのち、肥後の菊池氏や薩摩の島津氏に招かれて儒学を講義し、薩摩で薩南学派を開いた。 南学は、土佐で南村梅軒によって開かれた。絶海中津は、五山の禅僧で、義堂周信とともに五山文学の双璧とされる。足利学校を再興したのは、上杉蒸実である。また、北条氏も足利学校は保護した。

16世紀後半には、キリスト教が伝来し、西日本を中心に広まった。イエズス会のフランシスコ=ザビエルは、日本にキリスト教を伝えた。14世紀以降、禅宗諸派(林下)が、地方の武士や庶民の支持を受けるようになった。 『御成敗式目』は法典としただけでなく、読み書きの手本としても読まれた。 往来物とよばれた読み書きの教科書は、中世だけでなく、近世に入っても多数つくられ、寺子屋での教育に用いられた。室町時代の中期には、初頭教科書である『産生来」が作られた。 戦国時代には堺・山口などで、木版による印刷が行われた。

足利義満の時代、南宋の官寺制にならって寺院の寺格を定める「五山・十刹の割」が出されたが、南禅寺は別格として五山の上に置かれた。室町時代には、臨済宗の有力寺院は、官寺に位置づけられ、京都・鎌倉のそれぞれに五山という格付けが行われた。鎌倉時代に武家社会に広まった臨済宗は、夢窓疎石が足利尊氏の帰依を受け、室町幕府の手厚い保護を受けた。

  • 天竜寺…京都五山の一つに数えられた。
  • 吉崎坊…浄土真宗の蓮如は、その教えを御文という平易な仮名書き文に書き、門徒組織の議などに送って信仰を固めさせた。 中世の日本海沿岸地域では蓮如が吉崎坊(吉職道場)を建立し て北陸の一向宗門徒の拠点とし、やがて門徒勢の力は加賀国の守護国澤氏を攻め滅ぼすまでにいたった。
  • 石山本願寺…摂津に建立され、周心に形式された町は寺内町として発展した。石山本願寺は惣を基盤にして、信者の農民や国人が一揆を結び、大名の支配と闘った。寺院や道場での集まりを中心に、広い範囲に信者の強固な組織を作り上げた。
  • 書院造…15世紀後半には、日親の布教活動により、日蓮宗が京都を早い に西日本各地に広まった。この頃、書院造と呼ばれる建築様式) 現れた。

東山文化

8代将軍足利義政の時代を中心とした、禅宗・明文化の影響を受けた枯淡幽玄の文化。足利義政は応仁の乱ののち、京都東山の山荘に隠退して、足利義満の金閣にならって銀閣(慈照寺)を建てた。簡素で幽玄のおもむきの強い書院造風の銀閣には、この時代独自の性格がみられるところから、銀閣に代表される文化を東山文化とよぶ。東山文化は将軍引退後に造営された山荘に代表される文化で、床の間・違い棚・付書院をもった書院造の東求堂が建てられた。

東山文化の時期には、大徳寺大仙院や竜安寺の庭園のように、石・白砂の組み合わせを主として大自然を表現した枯山水がつくられた。東求堂の同仁斎のように、床・棚・明障子・襖をもちいた書院造という建築様式ができた。室町時代の高級和紙の産地として、越前・美濃などが知られる。

14世紀後半には、連歌の規則書である応安新式が作られた。二条良基は連歌の規則書を著し、『新撰菜玖波集』を撰し、連歌を和歌と対等の地位にたかめた。山崎宗鑑の俳諧連歌は、口語を用いて滑稽さをねらう作風を流行させた。

将軍足利義尚に連歌を指導した宗祇は、連歌の芸術性ばかり、九州から東北までの諸国を遍歴して旅の生涯を送った。 戦国時代には農業の進歩にともなって民衆の生活が向上し、民衆が参加し楽しむ各種の芸能も盛んになった。趣向を凝らした扮装をして踊る風流踊りが盛んになった。

禅僧が家からもたらした茶は、南北朝・室町時代に寄合の茶の湯として流行した。堺の村田珠光がはじめた宿び茶の方式は武野紹鴎に受け継がれた。

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