【日本史】室町時代の一揆や戦乱

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【日本史】室町時代の一揆や戦乱についてまとめています。

室町時代の一揆や戦乱

戦国時代には畿内を中心に窓村(窓)と呼ばれる自立的・自治的な村が数多く出現した。 惣村では祭礼などの年中行事、用水や山林の管理について合議した。おとな(乙名、長)、惣旋(村症)、地下請(百姓請)などからは、室町・戦国時代における村落の自治の様子がうかがえる。

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惣村

惣村では、神社の祭礼行事の組織として宮座が結成された。話し合いは寄合とよばれ、日常の村政にあたったのは、おとなや沙汰人などであった。 責任をもって年貢を徴収することを地下請、惣村が独自の警察権・裁判権を持つことを自検断(地下検画)といい、惣村内の秩序を維持するための規約(村症)が定められた。

正長の土一揆

正長の土一揆の様子は、『大乗院日記目録』の中に、「土民蜂起これ初めなり」と記されている。正長の土一揆は、将軍足利義款が殺害されたあとの混乱に乗じて起こったもので、一揆側の攻勢のために、幕府はやむなく徳政令・を発布した。 鎌倉公方らの反幕府の動きに危機感をもった足利義教は、守護や公家を統制して将軍権力を強化しようとした、

永享の乱

足利義教は、将軍に就任して以来、守護家の家督相続に介入し、たり、延暦寺を攻撃したりした。 専制化をめざす将軍と鎌倉公方足利特氏との対立が、永享の乱の起こる原因の一つであった。

結城合戦

1440年、結城氏が足利持氏の遺児を擁して挙兵したが、棒材集に敗れた。

応仁の乱

永享の乱以後、東国では鎌倉公方の子が、下総の古を本拠と応仁の乱が起きた一因には、将軍家や幕府の管領家の家督争いがあった。 応仁の乱より前の時期には、京都周辺の農民などが徳政を要求して蜂起し、洛中洛外の土倉・酒屋・寺院などを襲撃して借金証書を奪った。

応仁の乱より後の時期には、京都では財力をたくわえた日蓮宗の信者が一向一揆に対抗したり、京都を戦火から守るために一揆を結んだりした。応仁の乱の後、公家の中には、戦国大名を頼り地方に下るものも現れた。応仁の乱より後の時期には、南山城で国人と農民が一揆を起こし、畠山両軍を撤退させて、その後8年にわたって自治的支配を行った。

加賀の一向一揆

加賀の一向一揆では、蓮如の布教により広まった一向宗の門徒 が中心になって蜂起した。浄土真宗本願寺派の門徒が国人と結ん で、守護の富樫政親を倒し、一揆による支配を約100年間行ったのである。中世の有力な寺社は本所として商工業者の座を支配するとともに膨大な荘園群を支配していた。

  • 馬借のなかには積極的に土一揆に加わり、徳政を要求するものもいた。
  • 土倉は室町時代、土一揆の襲撃対象となることがあった。

まとめ

  • 正長の土一揆…1428年、近江(滋賀県)の馬借らが幕府に徳政令を帳消を要求する正長の土一揆をおこしました。この徳政一揆 は、畿内(都の周辺)に広がる大規模なもので、人々は酒屋や土倉をおそって、借金証文を焼き捨てるなどしました。
  • 山城国一揆…1485年には、山城(京都府)で国人(在地の有力武士)と農 民が、2派に分かれて争いを続けていた守護大名の畠山氏 の軍勢を追い出し、以後、8年間も自治を行った。これを山城国一揆といいます。
  • 加賀の一向一揆…1488年には加賀(石川県)で、浄土 真宗(一向宗)の信者らが守護大名の富樫氏を滅ぼし、以後、約100年間も自治を行います。これを加賀の一向一揆といい、「百姓の持ちたる国」とよばれました。

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