【日本史】大化の改新

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【日本史】大化の改新についてまとめています。

大化の改新

難波は内海に開け、外国の使節が度々来訪して交渉の場となった。大化改新の際に都となり、奈良時代にも一時的に遷都が行れた。大化の改新以前に有力な皇位継承者と目されていた山背大兄王はいるが、蘇我入鹿によって自殺に追いこまれた。

孝徳天皇が即位する直前に、蘇我氏の中心人物であった蝦夷・入鹿父子が倒された。

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改新の詔

改新の詔では京・畿内や地方の行政制度や中央集権的な交通・軍事の制度、新たな租税制度を定めている。 日本海側の蝦夷支配の拠点として、淳足綱・緊舟欄が設けられた。

斉明天皇の時代

斉明天皇の時代には、蝦夷を服属させるため、阿倍比羅夫を秋田・津軽方面に派遣した。白村江の戦いでの敗戦後、天智天皇は防衛のために、九州大宰府のすぐ北に、貯水によって敵の侵入を防ぐ水城を築いた。

天智天皇の時代

天智天皇の時代には、わが国最初の全国的戸籍として庚午年籍がつくられ、氏姓の根本台帳として重視された。壬申の乱は、天智天皇の子の大友皇子を中心とする勢力と、天智天皇の弟の大海人皇子を中心とする勢力の間で争われた。壬申の乱の終了後に、八色の姓が定められ、諸豪族は新しい身分秩序に編成された。672年の壬申の乱ののち、都が近江から飛鳥へ移され天武天皇が即位した。

天武天皇

天武天皇は壬申の乱の後、畿内の有力豪族が没落したことにより相対的に権力を強め、親政を行った。天武天皇は仏教を尊重して大寺院を建立する一方、僧尼を規制し、仏教を国家統制の下に置いた。 天武天皇は飛鳥浄御原会事を開始をした。 天武・持統天皇の時代には、律令法典の編纂と官僚制の整備が進められた。

持統天皇

持続天皇は、もと天武天皇の皇后であったが、夫・天武天皇や息子・草壁王子の死後、自ら皇位につき、また孫・文武天皇の即位も実現している。 持統天皇は庚寅年籍を制定した。柿本人麻呂は勇壮な長歌を数多く詠んだが、そのなかには天皇を神格化する歌も含まれている。 10

7世紀末には、中国の都城にならって、飛鳥北方の地に条坊制をもつ大規模な藤原京が営まれた。 百済滅亡をきっかけに、日本は新羅と厳しく対立し、緊張関係が高まったが、のちには国使も派遣され、文化的交流が進められていった。藤原氏は大化改新に功績のあった中臣鎌足に藤原朝臣の氏姓が与えられて成立し、その子藤原不比等は律令編纂などに大きな役割を果たした。

大官大寺は、7世紀後半に建立された代表的な官立の寺院である。7世紀後半には、滅亡した百済から日本に逃れた王族・貴族たちが文化に影響を与えた。

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