【日本史】織豊政権(織田信長と豊臣秀吉の政治)

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【日本史】織豊政権(織田信長と豊臣秀吉の政治)についてまとめています。

織豊政権

織田信長は、室町幕府の将軍足利義昭を擁して上洛し、やがて村軍を追放したが、足利氏に代わって征夷大将軍になることはなかった。地方に下向した人々のなかには、朝倉氏や織田氏を頼った足利義昭のように、政治的な理由などから畿内を逃れた者も少なくなかった。

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織田信長

  • 桶狭間の戦い…今川義元を破った。
  • 長篠の戦い…武田勝頼を破った長篠の戦いは、鉄砲が初めて集団使用されたことで画期的な戦いである。
  • 法華一揆…1571年に比叡山を焼き打ちし、法華一揆を弾圧した。

伊勢長島を中心とする地域では一向一族が織田信長軍に対して蜂起したが、激戦の末に1574年に鎮圧された。織田信長は各地の一向一揆を討ち滅ぼし、その本山である石山本願寺を屈服させた。堺を屈服させた織田信長は、安土に城を築いた。関所を撤廃し、城下町の商業活動が円滑にいくようにした。

豊臣秀吉

豊臣秀吉は関白についで太政大臣に任じられたが、征夷大将軍になることはなかった。聚楽第を造営して天皇をむかえ、諸大名に天皇と自
分に対する忠誠を誓わせた。四国、九州を平定したのち、小田原城にたてこもった後北条氏を攻め、あわせて東北地方の諸大名も服従させた。

朝鮮侵略

朝鮮に対して、人貢と明征服の先導役を果たすことを表めた。 朝鮮侵略の際に、朝鮮で発達していた活字印刷の技術が日本へ持ち込まれた。朝鮮に出兵していた諸大名とその軍勢は、秀吉の死後に全軍撤退した。

太閤検地

近世には検地の結果、村の田畑屋敷地では、検地帳に登録された者に所持が認められた。太閤検地では土地測量の基準が統一され、300歩=反と定められた。1村ごとに耕地の面積などを調査し、従来の高制を石高制に改めた。一地一作人の原則で耕作者を決め、従来の複雑な土地所有関係を整理した。

太閤検地により決められた石高は、土地の生産力を米の生産量で示すもので、年貢の量を示すものではなかった。 近世の日本では士農工商にわたる身分体制の確立は、主として農 民を対象に発せられた刀狩令によって着手された。

バテレン追放令

「日本は神国である」としてバテレン追放(宣教師)令を出し、宣教師の国外追放を命じ、長崎の教会員定収した。京都・長崎などの商人の、東アジア諸国への渡航を認めた。倭寇などの海賊行為を取り締まった。

まとめ

<織田信長>

  • 各地に設けられていた関所は、人や物資・軍隊の移動などをさまたげていたため、廃止して交通の便をはかった。
  • だれでも自由に商売ができるようにするため、安土城下では、新興の商工業者を集めて市場の税を免除し、営業を独占していた座の特権を廃止した。商工業をさかんにするためのこの政策を楽市令(楽市楽座)という。
  • 領内 の検地を行って、土地の面積や収穫量を家臣や名主(有力な農民)に自己申告させた。これを指出(さしだし)という。
  • 統一事業をさまたげる寺院などの古い勢力をおさえ、貿易の利益を得るためにキリスト教を保護した。
  • 周囲に堀をつくり武力をもって信長に対抗していた堺(大阪府)も屈服させ、自治権をうばって直轄地とした。

<豊臣秀吉>

  • 太閤検地…土地と農民を支配し年貢を確実に取り立てる目的で、1582年ころから役人を派遣して全国的に検地を開始した(太閤検地)。統一したものさしやますで田畑の面積や等級を調べて土地の生産力を石高(米のとれ高)で表し、田畑の耕作者をすべて検地帳に登録した。
  • 刀狩令…武士は、石高で知行(領地)をあたえられた。 1588年、秀吉は農民らの反抗を防ぎ、田畑の耕作に専念させるために刀狩令を出して、武士以外の者から刀・やり・鉄砲などの武器を取りあげた。
  • バテレン(宣教師)追放令…豊臣秀吉は、初めはキリスト教の布教を許していたが、 長崎の地が教会領になっていることや、ポルトガル人が日本人を買い。奴隷として海外に連れ去っていることを知ると、キリスト教が国内統一のさまたげとなると考え、1587年に バテレン(宣教師)追放令を出し、宣教師を国外に追放した。しかし、秀吉は外国船の来航は歓迎し、南蛮貿易を奨励した。それもあって、布教の禁止は徹底しなかった。

これまでの政治の歴史

以上が、【日本史】織豊政権(織田信長と豊臣秀吉の政治)となります。

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