【日本史】明治時代の立憲政治

シェアする

スポンサーリンク

【日本史】明治時代の立憲政治についてまとめています。

立憲政治

伊藤博文らはヨーロッパでシュタインやグティストからドイツ派の憲法理論を学んで帰国し、憲法制定の準備を進めた。 大日本帝国憲法の起草作業は、法律顧問のロエスレルの助言も得て進められた。大日本帝国憲法の発布当時は、まだ議会は開かれておらず、枢密院の審議を経て発布された。

スポンサーリンク

憲法発布までの年号

  • 1884年、政府は華族令を公布し旧公家・大名以外でも、国家に勲功のあった者に華族になる道を開いた。 明治維新の功績者は、後に華族に加えられた。
  • 1885年、政府は太政官制を廃止し内閣制を施行して、公家出身でない者を行政の最高責任者(内閣総理大臣)の地位につけた。
  • 1889年(明治22年)には大日本帝国憲法が発布された。

大日本帝国憲法

かつて北海道開拓使の長官であった黒田清隆が首相の時に、大日本帝国憲法の発布、および衆議院議員選挙法の公布が行われた。法律の制定には帝国議会の協賛が必要とされた。信教の自由は制限付きで認められていた。陸海空の統帥権は、天皇大権の一つとされた。

明治政府は、ドイツ人学者の助言を得て市制・町村制を制定した。1890年には府県制が定められ、府県の知事は、中央から派遣された。1890年代には民党系の代議士は、地域社会の租税軽減要求を背景に、帝国議会で「民力休養」を主張した。

民法

ボアソナードの民法は、フランスの自由主義的なものであったため、のちに民法典論争を巻き起こした。 明治民法では、長男による家督相続制がとられていた。

軍人勅諭は、軍人の天皇への忠節を強調し、政治に関与するこを戒めるものであった。桂太郎と西園寺公望が交互に首相となった明治時代後期から大正時代初期にかけての約10年間は、桂園時代とよばれる。

選挙

わが国最初の総選挙では、日本の総人口に対して有権者の占める比率は約1%強であった。 わが国最初の総選挙では、選挙人は直接国税15円以上を納入する25歳以上の男子であった。 1880年代末には制限選挙制にもとづく地方議会の制度が整い、市町村会が開かれた。最初の衆議院議員選挙では、民党勢力が過半数を占めた。明治憲法の発布から日清戦争開戦までの時期には、民党が初期議会で政府と対立した。初期議会では政府は詔勅により民党の反対を抑え、予算を成立させた。民権派の再結集に対して、政府は超然主義の立場をとった。

議会

第1回帝国議会では、自由党の一部が予算成立に協力した。日清戦争前に、山県首相は国家の主権線と利益線を守ることを理由に軍備拡張を主張した。

黒田清隆

黒田清隆は(北海道)開拓使官有物払下げを強行しようとして批判をあび、一時閑職に退いたが、のちに復帰し、首相として大日本帝国憲法発布の式典に臨んだ。 黒田清隆首相は大日本帝国憲法の発布直後に、超然主義の立場を声明し、衆議院議員選挙法を公布した。

  • 山県有朋は徴兵制度を導入し、陸軍最高の指導者として2回首相となり、その後も元老として権力をふるった。
  • 松方正義は大蔵卿として紙幣整理を断行し財政の安定に貢献するとともに、首相を2回つとめ、のちに元老となった。
スポンサーリンク

シェアする

フォローする