【日本史】摂関政治のまとめ

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【日本史】摂関政治についてまとめています。

摂関政治

藤原冬嗣は薬子の変に際して嵯峨天皇が機密文書を取り扱うために初めて設けた蔵人頭となり、天皇の側近として信任され、皇室と姻戚関係を結んだ。清和天皇は、これまでの成人が即位するという例を破ってきわめて幼くして即位し、藤原良房は臣下としてはじめて摂政をつとめた藤原良房は応天門の変の解決後、正式に摂政の位につき、以後摂政・関白が常に置かれる政治体制を築いた。藤原氏が政権の独占を成し遂げたのは、安和の変以降のことである。

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摂政・関白

摂政・関白は、金制の左・右大臣・人政大臣の職務とかかわ りなく、その上に位するものとなり、もっぱら天皇の外戚にあたるものが任じられた。また天皇が幼少のときには摂政となり、成人ののちには関白となるのが慣例となり、摂関につくものは 藤原氏の氏長音という私的な地位もかれるようになった。

橘氏

橘氏は皇族の出身で、奈良時代には藤原氏と拮抗する勢力を持っていた。橘逸勢が承和の変で失脚して以後、没落していった。平安宮応天門の炎上は大納言伴善男の陰謀とされ、善男らは配流された。光孝天皇の即位に際して、藤原基盤ははじめて関白に任じられた。

醍醐天皇

醍醐天皇の時代に、左大臣藤原時平と対立した右大臣の菅原道真は大宰府に左遷された。 醍醐天皇の在位中に、唐は滅亡した。10世紀前半には、醍醐天皇と村上天皇によって、後に延喜・天暦の治とよばれる天皇親政が行われた。

  • 承和の変…842年、恒貞親王の即位を企てたとして、橘逸勢らが流罪となった。
  • 応天門の変…866年、応天門に放火したとして、伴善男が伊 豆に流罪となった。
  • 安和の変…969年、為平親王の即位を企 てたとして、源高明が大宰府に左遷された。

藤原氏全盛

平安時代中期以降、天皇の幼少期には摂政が、成人後には関白が置かれた。藤原兼家・道長の時代には、皇朝十二銭の最後の貨幣である乾元 大宝が鋳造された。三蹟の一人である小野道風が活躍した。

  • 枕草子…貴族社会の生活や感情をつづった『枕草子』が著された。
  • 藤原道長…当時流行した浄土の教えを信じ、晩年には阿弥陀堂を中心とする法成寺を造営した。
  • 藤原実資の『小右記』…宮廷の儀式や故実について記された記録がある。そこには、「この世をば我が世とぞ思ふ、望月の欠けた ることもなしと思へば」と詠んだ藤原道長の栄華についても記述されている。
  • 藤原頼通…約50年にわたって摂関の地位を独占し、平等院鳳凰堂を建立した。

このころの貴族の生活

貴族は、結婚すると夫が妻のもとに通い(妻問婚), または数人の妻のうち, おもだった妻の家に同居することが多 かった。したがって婚姻生活の中心はむしろ妻の家にあり、子もそこで養育された。天皇の外祖父が勢力をふるう摂関政治は、このような貴族の生活慣習によるところが大きい。男子は15歳前後で元服すると成人としてあつかわれ、官職をえて朝廷に出仕したが、その昇進の順序や限度は、家がらによってほぼ一定していた。朝廷での仕事も、すべて先例によっておこなわれ、儀式的な年中行事が発達し、これらについて十分にこころえていることがたいせつな教養とされた。天災や社会不安がおこると、それは政治的事件で不遇な最期をとげた人の票りだとし、その霊をなぐさめる御霊会がさかんになった。

日本史 あわせて確認

以上が、【日本史】摂関政治となります。

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