高校日本史【大正時代の要点】ここだけは押さえる!

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【日本史】大正時代についてまとめています。

大正時代の社会運動

大正期の社会運動において、第二次世界大戦前、社会主義思想の研究には国家によるきびしい 制約があり、森戸辰男は研究論文が危険思想とされ処罰された。鈴木文治が設立した友愛会は、労資協調を唱え、労働組合運動の母体となった。東京帝国大学の思想運動団体である新人会は、社会科学の研究や啓蒙を行い、日本の社会運動に大きな影響を与えた。

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女性の活躍

第一次世界大戦後の1920年代前半には、差別からの解放を訴え全国水平社が設立され、部落差別の撤廃をめざした。市川房江は女性解放運動の指導者で、平塚らいてう(雷鳥)らと新婦人協会を結成して女性の政治参加を訴えた。1924年婦人参政権獲得期成同盟会を作り、第二次世界大戦後には参議院議員となった。『青鞜』は、平塚らいてうによって創刊された。市川房枝が婦人参政権獲得運動をはじめたころ、山川菊栄らが社会主義の立場からの女性解放運動を展開した。社会主義を宣伝する赤瀾会が、女性によって結成された。

  • 1920年代前半には、農民運動の全国組織として日本農民連合が結成された。

社会運動が、全国に広まる。

  • 労働争議…労働者が雇い主に労働者の意見を認めさせるためにストライキなどを行う。
  • 小作争議…小作人が地主に小作料の引き下げを求める。
  • 女性運動…1920年平塚雷鳥が新婦人協会を結成。女性の政治活動の自由、高等教育の拡充などを求める。
  • 部落解放運動…1922年部落差別からの解放を目指して、全国水平社が形成される。
  • 普通選挙法…1925年に制定された25歳以上の男子に選挙権を与える法律。
  • 治安維持法…共産主義の活動などを取り締まる法律。
  • 女性や労働者、差別を受けた人々が解放を求めて立ち上がった。

大正時代に自由主義の風潮が高まります。

  • 民本主義…吉野作造が、普通選挙によって国民の意向を政治に反映させることを主張。
  • 天皇機関説…美濃部達吉が主張した、主権は国家にあり、天皇は国家の最高機関として憲法に従って統治するという憲法学説。

政党政治

関東大震災の直後には、根拠の無い流言をもとに、多くの朝鮮人が自警団や官憲によって虐殺された、関東大震災による混乱の中で、無政府主義者の大杉栄と伊藤野枝が憲兵によって殺害された。1925年(大正14年)には普通選挙制度が成立したが、普通選挙論を唱えた政治学者には吉野作造がいた。

内閣

第1次加藤高明内閣の選挙法改正に基づく最初の衆議院議員選挙で、無産政党から8名が当選した。第一次世界大戦後、労働者・農民の利益を代表する、労働農民党 などの無産政党が結成された。第一回普通選挙では、その無産政党からの当選者も出た。 「憲政の常道」とは、慣例として、衆議院で多数の議席を占める政党が内閣を組織することである。

治安維持法

治安維持法は、「国体」の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社運動の取り締まりを意図していた。田中義一内閣のときに、特別高等警察(特高)が全国に設置された。治安維持法第一条に示された最高刑は、田中義一内題のときに死刑に訂正された。治安警察法と治安維持法は、ともに1945年に廃止された。

政党政治のころ

加藤高明内閣成立以来、1932(昭和7)年の五・一五事件で犬養毅内閣が崩壊するまで、政党内閣がつづき、立憲政友会と憲政会(のち立憲民政党)の二大政党が交代で政権を担当した。ただ一人の元老西園寺公望や総理大臣経験者などの重臣たちも、政党政治を「憲政の常道」とみなして、これに協力した。しかし、議院内閣制が憲法上に制度化されたわけではなく、議会の権限はかぎられたもので、軍部・枢密院・官僚のような議会外の勢力もなお大きな力をもっていた。また政党政治とはいっても、総選挙の結果により政権の交代がおこなわれたことはほとんどなく、野党は政権をとるため、しばしば議会外の勢力と手をにぎって政府・与党を攻撃した。

金権政治

政党相互の対立はいちだんとはげしくなった。普通選挙の実施で有権者が急増したため,選挙資金はますます巨額に なり,政党は政治資金の調達などをつうじてふかく財界とむすびつき、政党政治家の汚職事件もしばしばおこった。そのため政党政治は「金権政治」であるとして、国民の不信感が高まった。このような状況のなかで軍部や国家主義団体などの政党政治排撃の動きが、しだいに勢いを増していった。

日清戦争

日清戦争の前には、朝鮮で、壬午軍乱(壬午事変)が起こった。明治17年(1884年)には、朝鮮の独立党が日本公使館の援助をえてクーデタを起こしたが、清国軍の攻撃で失敗した。伊藤博文と李鴻章によって天津条約は結ばれ、日清両軍の朝鮮からの撤兵などが定められた。アジア近隣諸国から、近代化が進む日本への留学生が増加する中、朝鮮からは、1881年6月から1884年の甲申政変までに100名近い留学生が派遣された。これは開化派の金玉均らの政策によるものであった。

甲午農民戦争

1894年、甲午農民戦争が起こると、朝鮮をめぐって対立していた日本と清国は朝鮮に出兵し、日清戦争が始まった。日清戦争がはじまると、議会は政府に対し全面的に協調するようになった。日清戦争が終わると、ヨーロッパ列強の中国進出が強まった。義和団事件の鎮圧を機として、列強による清国の勢力圏分割は進んだ。日清戦争の講和条約で、日本は2億両の賠償金を得ることになった。

1897年には、清国からの賠償金をもとに、金本位制が確立された。第1次大隈内閣の内務大臣を務めたのは、板垣退助であった。1890年代には、政府のなかには超然主義を維持しようとする勢力も強く、山県有朋内閣は文官任用令を改正するとともに、軍部大臣現役武官制を定めた。立憲政友会は伊藤博文が総裁に就任して1900年に新たに結成された。

下関条約

下関条約では、清国は、朝鮮が独立国であることを認めるとともに、新たに重慶などの4市を開市・開港した。 日清戦争の結果得た遼東半島は、三国干渉の結果返還させられた。 日清戦争の結果、清国は朝鮮への宗主権を放棄し、その独立を認めた。日清・日露両戦争間の時期には「新嘗胆」を合言葉に、軍備の拡張が進められた。日清戦争後になると、政府と政党のあいだには妥協が進み、政党結成をめざした伊藤博文と憲政党の提携によって立憲政友会が結成された。

日本公使らによる閔妃被害事件以降、朝鮮における反日気運はいっそう高まった。朝鮮(韓国)貿易において、日本は主に繊維品を輸出し、食料品(米)を輸入するようになった。

練習問題

次のア・イ・ウはすべて1897(明治30)年に起きたものだが、これらがこの時期に起きた背景を120字以内で説明しなさい。
ア 貨幣法を改正して金本位制度を導入した
イ 綿糸の輸出量が輸入量を上まわった
ウ 官営八幡製鉄所の建設をはじめた

解答
日清戦争後、政府は清国から得た影響をもとに本位制を導入し、賃整価値の安定と貿易の振興を行った。機械制生産を行う大規模工場が設立されて、綿糸の輸出が急増し、官営事工場の拡充と重工業の基難となる影場の国産化による軍備拡張も急がれた。

日露戦争

日露戦争直前、ロシア軍は満州(中国東北部)に駐屯し、満州を勢力圏におさめようとした。日露戦争に対して、幸徳秋水や堺利彦ら平民社の機関紙『平民新聞』が社会主義の立場から反戦論を展開した。日露戦争期、日本の利益線とは朝鮮半島を指した。日露戦争時の軍事費は、国家予算の8割以上を占め、外債はアメリカやイギリスで募集された。日露戦争の戦費は外国債以外に内債や増税によってまかなわれ、それにより国民の負担は重くなった。

協定・条約

桂・タフト協定が結ばれたのと同じ年(1905年)、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトは、ロシアと日本との講和を斡旋した。 ・日露戦争の講和条約はパーツマスで締結された。北緯50度以南の樺太、満州地域の一部は、ロシアとのパーマス条約の結果、日本の支配地域となった。南満州権益の独占により、日米関係が急速に悪化した。

戦争後

日露戦争後の官営八幡製鉄所の発展は、中国からの原料鉄鉱石の供給に支えられていた。 南満州鉄道株式会社の設立によって、満州(中国東北部)から日本への油粕(大豆粕) 輸入の増大が促された。さらに、日本では講和反対運動などをきっかけに、貧困に悩む民衆がしばしば騒擾事件を引き起こした。また、アメリカが満州への経済進出の動きを示したことに対抗するため、日本とロシアは接近して1910年に日露協約を改定した。

桂園時代

アメリカで日本人移民排斥運動が発生したことから、南米への日本人移民が急増した。日米間では、日露戦争中に韓国をめぐって桂・タフト協定が結ばれた。1905年の日比谷公園での国民大会は、日露戦争の講和条約締結に反対して開催された。この国民大会により第一次桂内閣が倒れ、第一次西園寺内閣が成立したが、その後は桂と西園寺が交代で内閣を組織する桂園時代となった。

西園寺公望は公家出身で2回首相となり、大正末期以後はただ一人の元老として首相候補者の推薦にあたって、政界に重きをなした。

1905年の日比谷公園での国民大会に参加した民衆は、政府高官邸や政府系新聞社を焼打ちした。日露戦争開戦から第一次世界大戦開戦までの時期に、日本政府は第3次日韓協約を締結し、韓国軍隊を解散させた。

韓国併合

日英同盟(日英同盟協約)が改定され、イギリスは日本の韓国保護国化を承認した。日本は朝鮮半島に対する支配権を確立し、1910年 の併合で植民地化した。韓国併合を行った日本は、首都の漢城を京城と改称し、朝鮮総督府を置いた。
第2次桂太郎内閣は成申詔書の発布を行った。桂・タフト協定によって、アメリカは日本の韓国保護国化を承認した。

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