▶【大好評】大学入試小論文講座の案内はこちら

【高校日本史探究】飛鳥時代のテスト対策問題・要点解説

日本史探究アイキャッチ画像 歴史総合
スポンサーリンク

【高校日本史】飛鳥時代の問題です。

スポンサーリンク

【対策問題】飛鳥時代の問題

【問1】推古天皇の時代におこなわれた遣隋使の派遣は、5世紀の倭王武による宋への使節派遣以来、約120年ぶりのことだが、隋への使節派遣の背景について、「倭の五王」の時代との違いを含め、以下の国名(王朝名)を用いて80字以内で説明しなさい。
王朝名:(隋)(高句麗)(百済)(新羅)

【問2】次の問いに答えなさい。

  1. 6世紀中ごろに、朝鮮半島への政策の失敗が原因で勢 力を失ったとされる豪族は何氏か。
  2. 6世紀中ごろ、ヤマト政権内で仏教受容などをめぐって対立した大臣と犬達の豪族はそれぞれ何氏か。
  3. 皇位継承問題で対立した大連の物部守屋を攻め滅ぼし、592年には自分たちが擁立した天皇を殺害した人物は誰か。
  4. 蘇我馬子に殺害された天皇は誰か。
  5. 崇峻天皇が暗殺されたあと、群臣に擁立されて即位した最初の女性天皇は誰か。
  6. 蘇我馬子とともに国政にあたった推古天皇の甥にあたる人物は誰か。
  7. 603年に定められた氏族ではなく、個人の才能・功績により冠位を与えるとした人材登用の制度を何というか。
  8. 604年に定められた天皇への服従、衆議尊重、仏法僧崇敬など、官人への道徳的訓戒を内容とした法令を何というか。
  9. 589年に、中国の南北朝を統一した王朝を何というか。
  10. 推古天皇の時代に隋の王朝に派遣された使節を何というか。
  11. 607年、遣隋使の使節として派遣されたのは誰か。
  12. 608年に派遣された県逗子の使節に同行して隋に渡った習学生の名をあげよ。
  13. 高向野玄の人物とともに隋に渡った学問僧を2人をあげよ。
  14. 遣隋使の記事などを載せている中国の歴史書は何か。
  15. 618年、隋にかわって中国を統一し、都を長安に置いて繁栄した王朝を何というか。
  16. 第1回遣唐使として派遣されたのは誰か。
  17. 17世紀前半の推古天皇の時代を中心に展開した文化を何というか。
  18. 氏族が一族のために建立し、その帰依を受けた寺院を何というか。
  19. 蘇我氏の発願によって建立された本格的な伽藍をもつ寺院を何というか。
  20. 厩戸王(聖徳太子)の発願といわれる現在の大阪市に所在する寺院を何というか。
  21. 厩戸王の発願により大和斑鳩の地に建立された寺院を何というか。

【問3】大宝律令でめざした徴税などの律令体制は、10世紀には現実的な修正を迫られていた。そのうち10世紀における人民や土地の支配方法の変化や、地方支配は誰 がになうようになったのかについて,以下の語句を必ず用いて80字以内で説明しなさい。

【問4】次の問いに答えなさい。

  1. 701年、律6巻・令11巻が完成し、律令政治の仕組みもほぼ整った。この律令を何というか。
  2. 大宝律令の律令の編纂に際し、中心となった人物を2人あげよ。
  3. 律令により運営される国家を何というか。
  4. 718年に成立し、757年に施行された律令を何というか。
  5. 養老律令の律令を作成した人物と施行した人物は誰か。
  6. 律令制度の中央官制の組織を官庁の数でまとめて何というか。
  7. 二官とは神武祭祀を司る言と、一般行政の最高機関である言を指すが、それぞれの名称をあげよ。
  8. 太政官のもとで、政務を分掌した中央行政官庁を総称して何というか。
  9. 官史の不正を監視する機関を何というか。
  10. 京内・宮中のこをおもな職務とした役所を何というか。
  11. 太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣と大納言・中納言・参議・三位以上の者をあわせて何というか。
  12. 一般に五位以上の位階をもつ者を何というか。
  13. 朝廷が置かれた京周辺の国々を何というか。
  14. 畿内以外の行政区を総称して何というか。
  15. 畿内・七道の行政区は、さらに細分化された。広い順に3つの行政区をあげよ。
  16. 国内の統治行政のために中央から派遣された地方官を何というか。
  17. 律令制下の諸国の役所またはその所在地を何というか。

【解答】飛鳥時代の問題

【問1】隋帝国の統一により、高句麗・百済、続いて新羅が使節を派遣して朝貢し、冊封を受けた。これにより情を中心とする国際秩序が形成されたが、日本は冊封を受けなかった。

【問2】

  1. 大伴氏
  2. 大臣:蘇我氏、大連:物部氏
  3. 蘇我馬子
  4. 崇峻天皇
  5. 推古天皇
  6. 聖徳太子
  7. 冠位十二階
  8. 憲法十七条
  9. 遣隋使
  10. 小野妹子
  11. 高向野玄
  12. 南淵請安、旻
  13. 隋書倭国伝
  14. 犬神御田鍬
  15. 飛鳥文化
  16. 氏寺
  17. 飛鳥寺
  18. 四天王寺
  19. 法隆寺
【問2】解説
1.『日本書紀』によると、大伴金村は、512年に加耶西部の地域に百済の支配権が確立したことが失政とされ、失脚したとされている。

2.欽明天皇の時代に仏教が公式に伝えられた際、宗仏派の蘇我稲目と排仏派の物部尾輿とが激しく対立したという。蘇我氏は、稲目・扇子・蝦夷・入鹿の4人が大臣の地位に就任し、権勢をほこった。

7.徳・仁・礼・信・義・智の6徳目を、大小に分けて12階とし、色別の冠を与えた。

11.このときの国書は倭の五王時代のころとは異なり、中国皇帝に臣属しない形式をとっていたため、隋の皇帝場帝が不快感を表したことが、『隋書』倭国伝に記されている。

【問3】戸籍作成と班田収授が滞り、公民を把握できなくなった。郡司の地方行政機能が低下し、徴税請負人化した受領の率いる在庁官人が国衙をにない、公地は負名体制に再編された。

【問4】

  1. 大宝律令
  2. 刑部親王、藤原不比等
  3. 律令国家
  4. 養老律令
  5. 作成:藤原不比等、施行:藤原仲麻呂
  6. 二官八省一台五衛府
  7. 神祇官、太政官
  8. 八省
  9. 弾正台
  10. 五衛府
  11. 公卿
  12. 貴族
  13. 畿内
  14. 七道
  15. 国・郡・里
  16. 国司
  17. 国府
【問4】解説
1.律は刑法であり、令は行政組織や官吏の勤務規定、人民の租税や労役の規定などである。
2.大宝律令完成のときの天皇は文武天皇である。
3.日本の場合は、天皇中心の中央集権的官僚制の国家体制であった。
5.養老令は官撰注釈書「令義解』と私撰注釈書『令集解』に大部分が、養老律は一部が伝存する。内容的には大宝律令と大差はない。
7.太政官では、最高官職ではあるが財閥の官である太政大臣、政務を総括した左大臣、右大臣、外記などから構成されていて、公卿会議で審議し、天皇の裁可を得て、の実務を八省に分担させた。
10.国衛門府・左衛士府・右衛士府・左兵衛府・右兵衛府を五衛府という。
スポンサーリンク

【要点】飛鳥時代

5世紀から6世紀にかけての時期には、大伴金村が対朝鮮政策の失敗をとがめられて失脚した後、しだいに物部氏と蘇我氏が対立するようになった。

  • 592年…蘇我馬子は男の崇峻天皇を暗殺し、姪の推古天皇を即位させた。
  • 645年…蘇我氏が政治において強硬手段を多用したことは、645年の乙巳の変で蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされる一因となった。 聖徳太子の時代には、5世紀以来とだえていた中国との交渉が隋使の派遣により再開された。小野妹子は「日出る処の天子」からの国書を持参し、後(日本) は中国皇帝と対等の関係を築こうとした。

推古朝

推古朝で摂政であった聖徳太子の時代には、豪族を官僚として編成するために冠位十二階の制や、官僚としての心構えなどを説いた憲法十七条が制定された。聖徳太子は、「篤く三宝を敬え」と説いた。聖徳太子は経典の注釈書である『三経義疏』を著したと伝えられている。天皇の系譜や伝承などを記した『天皇記』や『国記』が、聖徳太子、蘇我馬子によってまとめられた。 遣唐使や遣隋使に随行した留学生・留学僧の中には、高向玄理がいる。

6・7世紀ごろには、百済滅亡前後に日本へ渡来した王族・貴族の影響もあって、漢詩文の制作がさかんになった。 大和政権は、新羅にほろぼされた百済に援軍を派遣したが、白村江で唐・新羅の連合軍に敗れた。高句麗僧の雲徴によって、紙・墨・絵の具の製法が日本に伝えられた。

推古天皇と外交

中国では、581年におこった隋が、589年に南朝の陳を滅ぼし、統一して大帝 国となり、高句麗に遠征するなど、周辺にも大きな影響を与えた。推占朝では、はじめ「任那」復興の問題で新羅攻撃を計画していたが、これを中止し、隋の統一による東アジア情勢の変化にともない、倭の五王以来途絶えて冊封関係がなかった中国との国交を開き、中国文化の摂取をめざした。

  • 冊封…皇帝が官位を授けること

飛鳥文化

飛鳥文化の仏像の様式には、中国南北朝時代の影響が認められる。例として法隆寺の釈迦三尊像がある。飛鳥時代には、法隆寺金堂釈迦三尊像の作者と伝えられる鞍作鳥(止利仏師)などの仏師が活躍した。

中宮寺の『天寿国編帳』は、聖徳太子の死後に作られた刺繍で、太子が往生した天寿国のありさまを描いたものとされる。7世紀の東日本では、集落の支配者である豪族は平地式の住居に居住していた。

大化の改新

難波は内海に開け、外国の使節が度々来訪して交渉の場となった。大化改新の際に都となり、奈良時代にも一時的に遷都が行れた。大化の改新以前に有力な皇位継承者と目されていた山背大兄王はいるが、蘇我入鹿によって自殺に追いこまれた。

孝徳天皇が即位する直前に、蘇我氏の中心人物であった蝦夷・入鹿父子が倒された。

改新の詔では京・畿内や地方の行政制度や中央集権的な交通・軍事の制度、新たな租税制度を定めている。 日本海側の蝦夷支配の拠点として、淳足綱・緊舟欄が設けられた。

  • 公地公民…皇室や豪族が私有していた土地や人々を、国が直接支配する。
  • 国郡制度…都の周辺を「畿内」とし、全国を国・郡に分けて国司・郡司をおいて統治。
  • 班田収授法…戸籍をつくって人々に公地(口分田)を貸し与え、死ぬと国に返される。
  • 租・庸・調…口分田を与えられた人々は、租・庸・調などの税を納める。

斉明天皇の時代には、蝦夷を服属させるため、阿倍比羅夫を秋田・津軽方面に派遣した。白村江の戦いでの敗戦後、天智天皇は防衛のために、九州大宰府のすぐ北に、貯水によって敵の侵入を防ぐ水城を築いた。

天智天皇の時代には、わが国最初の全国的戸籍として庚午年籍がつくられ、氏姓の根本台帳として重視された。壬申の乱は、天智天皇の子の大友皇子を中心とする勢力と、天智天皇の弟の大海人皇子を中心とする勢力の間で争われた。壬申の乱の終了後に、八色の姓が定められ、諸豪族は新しい身分秩序に編成された。672年の壬申の乱ののち、都が近江から飛鳥へ移され天武天皇が即位した。

天武天皇は壬申の乱の後、畿内の有力豪族が没落したことにより相対的に権力を強め、親政を行った。天武天皇は仏教を尊重して大寺院を建立する一方、僧尼を規制し、仏教を国家統制の下に置いた。 天武天皇は飛鳥浄御原会事を開始をした。 天武・持統天皇の時代には、律令法典の編纂と官僚制の整備が進められた。

持続天皇は、もと天武天皇の皇后であったが、夫・天武天皇や息子・草壁王子の死後、自ら皇位につき、また孫・文武天皇の即位も実現している。 持統天皇は庚寅年籍を制定した。柿本人麻呂は勇壮な長歌を数多く詠んだが、そのなかには天皇を神格化する歌も含まれている。

7世紀末には、中国の都城にならって、飛鳥北方の地に条坊制をもつ大規模な藤原京が営まれた。 百済滅亡をきっかけに、日本は新羅と厳しく対立し、緊張関係が高まったが、のちには国使も派遣され、文化的交流が進められていった。藤原氏は大化改新に功績のあった中臣鎌足に藤原朝臣の氏姓が与えられて成立し、その子藤原不比等は律令編纂などに大きな役割を果たした。

大官大寺は、7世紀後半に建立された代表的な官立の寺院である。7世紀後半には、滅亡した百済から日本に逃れた王族・貴族たちが文化に影響を与えた。

大宝律令

律令政府は碁盤の目状に土地を区画する条里制によって、農における耕地を把握した。古代の日本では、官僚制などを整えるため、中国の律令法を取り入れた。

天武天皇は、即位ののち一人の大臣もおかず、皇子たちとともに政治をおこない、豪族を新しい支配体制に組みいれようとした。そして684年、八色の姓を定め、豪族を皇室との関係の遠近に応じて新しい身分に位置づけた。

また律令や国史の編さんにも着手した。つぎの持統天皇(天武天皇の皇后)はこれをうけついで、689年飛鳥浄御原令を施行するとともに、藤原京の造営をすすめ、694年、古京の飛鳥からこの新京に都を移した。

藤原京はわが国ではじめての中国風な都城である。続いて文武天皇の701(大宝元)年には、刑部親王・藤原不比等らの手によって大宝律令が制定され、ここに日本は律令国家としての形をととのえた。大宝律令の改定法として、養老律令が編纂された。

  • 律令…律令国家の行政機関、租税制度、刑罰や裁判制度が定められていた。
  • …犯罪とそれに対する刑罰について定めた法典であり、国家や天皇に対する犯罪は、八虐という重罪の一つであった。 律令下の法は、太政官の合議・立案を経て、天皇の裁可を得て制定された。
  • …今日の行政法や民法にあたる。

大宝律令にもとづく政治のしくみ

  • 治部省…国家の仏事や外交を担当した。
  • 刑部省…刑罰に関する政務を担当した。
  • 弾正台…風俗の取り締まりや官更の監察を担当した。
  • 鎮守府…蝦夷に対する支配を進めるため、陸奥国に置いた。
  • 摂津職…難波には特別行政機関として設置された。
  • 国司…任期は当初6年とされたが、後に4年に短縮された。
  • 里長…里に置かれており、里はのちに郷と改名された。

律令政府は調前を課す基本台帳として、毎年計帳を作成した。班田収授・氏姓確認の基本台帳として、6年ごとに戸籍を作成した。すべての人民を、身分の上で良民と賎民に分けて支配。中央の財源となった調庸は、成年男子のみに課され、女子には課されなかった。 口分田には1段あたり2束2把の租が課され、口分田は、6年ごとに回収された。

農民の税

  • 稲の出挙…おもに春に借り秋に利子とともに返済する制度であった。
  • …地方の正倉に収納され、地方の財源に充てられた。
  • …中央での労役(歳役)のかわりに布などを納めるものとされた。
  • 雑徭…国司の命令による年間60日以内の労役であった。
  • 兵役…成年男子を3人に1人の割合で徴発する兵役が行われた。

律令制度の変遷
桓武天皇は、班田収授を6年から12年に1回(一紀一班)とすることでその完全実施をめざしたが、9世紀に入ると班田収授自体が滞りはじめた。

醍醐天皇は、延喜の荘園整理令(902年)や班田収授の励行など律令制の再編をめざしたが、結果として902年が全国規模における最後の班田収授となった。醍醐天皇は村上天皇とともに藤原氏を摂政・関白をもたない天皇親政の理想の世(延喜・天暦の治)とされるが、律令制の崩壊が露呈したのも10世紀であった。

コメント

テキストのコピーはできません。