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【日本史探究対策問題】平安時代の問題

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【日本史探究対策問題】平安時代の問題です。

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【対策問題】平安時代の問題

【問1】桓武天皇の仏教政策の特色を、「最澄」「平安京」の語句を用いて80字以内で説明せよ。

【問2】保元の乱・平治の乱に共通する意義について、80字以内で説明せよ。

【問3】10世紀の律令制度の転換期のなかで浄土教が貴族層に広まった事情を、「空也」「末法思想」の語句を用いて80字以内で説明せよ。

【問4】藤原氏の北家が国政上の権限を掌握した摂関政治について、冬嗣の子の良房とその養子の基経が活躍した9世紀と、道長・頼通父子のもとで全盛期を迎えた11世紀とを、次のAとBの点で比較し,それぞれ80字以内で説明しなさい。(A)両者の経済的基礎(B)権力集中の方法とその実行

【問5】次の問いに答えなさい。

  1. 光仁天皇の政策を受け継ぎ、律令制の再建につとめた天皇は誰か。
  2. 784年に桓武天皇が遷都した。山背国の都を何というか。
  3. 長岡京の都の造営を主導したが、現地で監督中に暗殺された、藤原式家出身の人物は誰か。
  4. 長岡京造営の後、今の京都に新たに建設された都を何というか。
  5. 794年に平安京に都が置かれてから、源頼朝によって幕府が開かれるまでの時代を何というか。
  6. 蝦夷征討のために任命された臨時の将軍を何というか。
  7. 桓武天皇の時代に6の職に任じられ、蝦夷の族長で あった阿弖流為を降伏させるなど、蝦夷征討に従事したのは誰か。
  8. 坂上田村麻呂が802年に北上川中流域に築いた城を何というか。
  9. 802年に、多賀城から胆沢城の城に移された。 蝦夷征討のための役所を何というか。
  10. 803年に、胆沢城のさらに北方に東北経営の前進拠点として築かれた城を何というか。
  11. 国司の不正を防ぐため、桓武天皇が設置した解由状(国司交替時の証明書)を審査する官職は何か。
  12. 勘解由使の官職のように奈良・平安時代にかけて新設された令に定められていない官職を何というか。
  13. 桓武天皇は軍団を廃止、新たに郡司の子弟や有力農民の志願による少数精鋭の兵を採用したこの兵を何というか。
  14. 桓武天皇の子で、桓武天皇のあとに即位したが、病気のため3年で退位した天皇は誰か。
  15. 平城天皇の弟で、平城天皇の退位後に即位し、新たな官職の設置など、政治改革を進めた天皇は誰か。
  16. 810年、平城太上天皇の復位と平城遷都をはかって起こされた事件を何というか。
  17. 嵯峨天皇のときに設けられ、天皇の傍らに待して機密の文書や訴訟を扱った令外官を何というか。
  18. 蔵人頭を長官とする役所を何というか。
  19. 蔵人頭の職に最初に任命された藤原北家出身の人物は誰か。
  20. 京中の治安維持のため、嵯峨天皇のときに新設された令外官は何か。
  21. 律令の条文の補足や改正のために出された法令と、施行細則をそれぞれ何というか。

【解答】平安時代の問題

【問1】道鏡らの仏教勢力が起こした政治的混乱を避けるため、長岡京・平安京への南都の大寺院の移転を認めず、最澄による天台宗など新しい仏教を支持して鎮護国家にあたらせた。

【問2】京を舞台に展開された争乱で、はじめて武士が本格的に動員された。貴族社会内部の争いも武士の実力で解決されることが明らかとなり、中央での武士の政治的地位が高まった。

【問3】摂関家による権力争いや地方政治の乱れを背景に、現世を否定して極楽往生を求める空也の教えが中下級の貴族のあいだに広がり、末法思想が阿弥陀仏への信仰に拍車をかけた。

【問4】
A 9世紀は、官人としての給与とみずから開発した荘園からの収入が主だった。11世紀には、寄進を受けた荘園からの年貢や公事と、中小貴族からの任官を目当てとした貢物が加わった。
B 9世紀は外戚の地位が安定せず、他氏も勢力を保った。他氏排斥を完成させた11世紀では、道長を外祖父とする天皇が3代続くとともに、公卿の多数を占めて、官吏の任免権も掌握した。

【問5】

  1. 桓武天皇
  2. 長岡京
  3. 藤原種継
  4. 平安京
  5. 平安時代
  6. 征夷大将軍
  7. 坂上田村麻呂
  8. 胆沢城
  9. 鎮守府
  10. 志波城
  11. 勘解由使
  12. 令外官
  13. 健児
  14. 平城天皇
  15. 嵯峨天皇
  16. 平城太上天皇の変 (薬子の変)
  17. 蔵人頭
  18. 蔵人所
  19. 藤原冬嗣
  20. 検非違使
  21. 格・式

4.桓武天皇が和気清麻呂の建言を容れて遷都した。東西約4.5km、南北約5.2kmで、構造はほぼ平城京に同じ。湿地帯の右京は発展せず、左京が繁栄した。

10.805年、東北地方での戦いと平安京造営という二大政策は、国家財政や民衆にとって大きな負担となるという藤原緒継と、二大政策の継続を主張する菅野真道との間で論争がおこなわれた(徳政論争、徳政相論)。その結果、桓武天皇は緒詞の意見を採用し、二大政策の中止を決定した。

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