高校日本史【江戸時代の要点】ここだけは押さえる!

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高校日本史【江戸時代の要点】ここだけは押さえる!です。

江戸幕府

徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いに勝った後、1603年に征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いた。方広寺の鐘銘問題がきっかけとなり、大坂の役がおこり徳川家康は大坂夏の陣で、豊臣秀頼を自害に追いこみ豊臣氏を滅ぼした。大坂の役に勝利したのち、幕府は武家諸法度を制定した。

1604年に生まれた徳川家光は、自らの武力で天下を掌握した徳川家康や、父・徳川秀忠と異なり、生まれながらに将軍の後継者であった。老中など、江戸幕府における多くの制度が、この3代将軍・家光のころに整えられた。

  • 大老…将軍を補佐する最高職であるが、常置の役職ではなかった。
  • 老中…譜代大名によって構成され、重要な政策は合議によって決定するなど、幕政全体を統括した。
  • 若年寄…小禄の譜代大名が勤める役職で、旗本の監察を主な任務とし、ある年齢になると老中に昇任した。
  • 幕府評定所…三奉行からなる最高裁判機関であった。

老中などの役職には、月番と呼ばれる1か月交代の制度が取り入れられた。

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幕藩体制

江戸幕府の制度は2代将軍徳川秀忠、3代将軍徳川家光の時代にほぼ整い、対外的にはいわゆる鎖国体制がかたまった。こうしてできた国家・社会の仕組みは、将軍と大名(幕府と藩)とが強力な領主権をもって土地と人民とを支配する体制という意味で、幕藩体制とよばれる。

将軍は旗本(1万石未満だが将軍に謁見でき、約5000人)、御家人(将軍に謁見を許されず、1万7000人)という直属の家臣団を多数かかえ、諸大名をはるかにしのぐ強大な軍事力をもっていた。財力の面でも,天領とよばれる将軍の直轄地が17世紀末に400万石に達したほか、江戸・京都・大坂・長崎などの重要都市や,佐渡・伊豆・但馬生野・石見大森などの金・銀山を直轄にして貨幣の鋳造権をにぎり、諸大名の財力を大きく上まわっていた。

幕府の職制

幕府の職制では、譜代大名が老中・若年寄などの要職につき、旗本は町奉行・勘定奉行などの役職についたが、おもな役職には2名以上を任じて月番交代で政務をとらせ、権力の独占ができにくいようにしてあった。

石高

幕領(天領)と旗本領をあわせた石高は、全国の石高の4分の1程度であった。江戸幕府は、天皇家の経済基盤として禁裏御料を設定した。大名は領国の石高に応じて、将軍への軍役をつとめた。

3代将軍の徳川家光は武家諸法度を改訂して、大名に参勤交代を義務づけた。大名は、参勤交代による江戸での生活を余儀なくされ、国元以外での支出も大きかった。 武家諸法度には、新たな業歳の禁止など大名を統制する規定があった。

江戸の交通

江戸時代には京都の豪商であった角倉了以が、富士川・高瀬川などの河川の開削を行った。 琵琶湖や淀川・利根川などで水上輸送が積極的に利用された。河村瑞賢が東廻り航路・西廻り航路を整備した。西廻り航路の整備により敦賀・新潟・酒田などが栄えた。東廻り航路によって、東北地方の米を大坂を経ずに江戸に運ぶことができるようになった。南海路を廻船が定期的に運航して、物資輸送を行った。

輸送

江戸時代には大坂から江戸へ酒を輸送するために登場した樽廻船が、やがてその他の日常物資を輸送するようになった。 東海道の大井川など特定の河川では、幕府の政策として橋を架けることが禁じられた。街道・宿駅が整備され、宿駅には本陣・問屋場などが置かれて、人馬による交通の便がはかられた。

17世紀の中ごろ、江戸と京都・大坂との間に民間の文書・荷物を運ぶ町飛脚が公認され、次第に全国各地に普及した。 中山道には、板橋から守山まで67の宿駅が設置されていた。東海道には、品川から大津まで53の宿駅が設置されていた。 中山道の碓氷などでは、関所が設けられて旅行者や荷物が厳しくあらためられた。

都市

江戸は政治の中心として、「将軍のお膝元」とよばれ、大坂は業都市として発展して「天下の台所」といわれた。また、京都では手工業生産が発達した。北陸の金沢は、近世に大名・前田氏の城下町として栄えた都市であり、明治初期には日本海側で最大の人口を擁した。松江は近世に発展した都市であり、石見大森銀山のあった島根県の都市でもある。

近世には、城下町は武家地・町人地などというように、身分ごとに居住空間が区別されるのが通例であり、町人町の中でも、同じ職業の人だけで住む町もあった。江戸時代の城下町では町年寄などの町役人が町政の運営まかされた。 江戸時代の城下町では職人の家に、徒弟が住み込みで働いている場合があった。

江戸時代の商業

江戸時代には都市で、常設の店舗を持たない棒手振が活動していた。江戸時代の蔵物とよばれる諸藩の荷物は、蔵屋敷に運ばれた。元禄期には、諸藩は大坂などに蔵屋敷をおき、蔵物の保管と売却には蔵元が、売却代金の保管と送金には問屋が当たった。

  • 札差…旗本・御家人から委託を受けて、俸禄米の換金を行った。
  • 五カ所商人…京都・堺・長崎・大坂・江戸の商人を指す。

元禄期には、大坂・江戸間の物資運送を円滑にするために大坂に二十四組問屋がつくられ、それに対応して江戸に十組問屋がつくられた。商品別の卸売市場がつくられ、大坂堂島の米市、江戸、神田、大坂天満の青物市場、江戸日本橋の魚市場が活況を呈した。金座・銀座・銭座は、それぞれ金貨・銀貨・銭貨の鋳造を行っていた。

江戸時代の町人

江戸や大坂・京都では、町屋敷は町奉行の支配下にあり,町 年寄や町名主が町奉行の命令をうけて、町内の自治をおこなった。住人には、土地・屋敷をもつ町人(家持)と借家をしている店借との区別があったが、彼らはおもに商工業にしたがった。

江戸時代の金融

江戸時代の初めには、幕府は銀座を開設し、丁銀や豆板銀を鋳造させた。江戸では計数貨幣の金貨、大坂では軽量貨幣の銀貨を基準として、商業取引が行われた。商品経済の発達とともに三貨の交換が増えたため、両替商が発達した。 元禄期、両替商の中には三貨間の両替を行うと同時に、預金・貸付け・為替の業務を行うものもあった。江戸時代の都市では、江戸や大坂の有力な両替商が、大名貸や為替業務を行った。17世紀以降の武士の困窮に対し藩は、財政窮乏を打開するために、藩内だけに通用する藩礼も発行した。

江戸時代の農村

農村では、商品生産の発達につれて症熱商人の活動が活発になった。 農村の飢饉が米価を高騰させるなど、都市の民衆にも影響を与えた。都市建設の進展にともなう木材需要に刺激されて、林業が発達した。

江戸時代の産業

たばこは江戸時代には商品作物として作られるようになった。麻織物の特産品として奈良廻や越俊胞 ・江戸時代には、青色の染料に用いるが、阿波の国で作付けされれた。近世には陶磁器の瀬戸・鰹節の土佐、酒の灘、醤油の野田など、特産地が各地に形成された。

江戸時代 農業

近世中期以降、農民たちは、茶・漆・桜・紅花・藍などの四水ニ草とよばれる商品作物の生産に力を入れるようになった。近世の農業では箱根用水が造られ、多くの耕地に灌漑用水を供給した。

  • 千石塞が普及。近世の農業では穀粒の大きさを選別する農具。
  • 米の脱穀に使用する農具として、千歯扱が普及した。
  • 風力を利用して約がらや塵芥を除去する農具として、唐箕が普及。

江戸時代には農書によって、新しい農業技術が広まった。 農学者である宮崎安貞は、日本初の体系的な農学書である『農業全書』を記した。 農学者である大蔵永常は、『農具便利論』や商品作物の栽培・加工による農家の利益と国益を論じた『広益国産考』を著した。大原幽学は民間にありながら農村復興を指導した。 二宮尊徳(金次郎)は、勤労・倹約を主とする報徳仕法によって農村復興に努めた。

江戸時代・近世の漁業

地引網などの網を用いた漁法が、各地に広まった。近世、畿内にもたらされた鯖の粕は、九十九里浜からの干解とともに、綿・菜種などの商品作物生産を発展させた。近世に入ると、瀬戸内海地方を中心に、潮の干満を利用して海水を導入する入浜式塩田が発達した。

江戸時代の鉱業

鉱山の開発もすすみ、とくに佐渡や伊豆の金山、 石見大森や但馬生野の銀山,伊予別子・下野足尾の銅山などが知られている。

江戸時代 綿織物

高機で高級絹織物を生産する技術は、もともと西陣が独占していたが、江戸後期には足利や洞生にも伝わっていた。 高機は、綿織物業では大坂周辺や尾張に導入された。高級絹織物の原料となる生糸は、当初は輸入糸に依存したが、次第に国産糸に代わっていった。 原料・器具とも自前のものを使用する農村家内工業では、様々な手工業生産が農業の片手間に副業として行われていた。問屋から提供された原料・資金で生産する問屋制家内工業により、絹織物が盛んに織られた。江戸時代に発達した綿織物業の特産物として久留米絣や小倉織がある。

近世を通じて、都市の建設が建築資材の需要を高め、木曽の檜、秋田の杉など各地の林業を発展させた。江戸時代には都市の有力商人たちの資本によって、町人請負新田が開かれた。

京都の西陣織

京都の西陣では、中国から輸入された生糸を原料にして高級な絹織物をつくっていたが、18世紀になると、国内産の生糸が多く生産されるようになり、西陣の技術が各地に伝えられ、関 東の桐生など地方で機業が発達した。

江戸時代の醸造業

醸造業では、近世になるとそれまでのにごり酒にかわって 清酒をつくる技術がうまれ、伏見・池田・灘・伊丹などが名産地となった。そのほか、紙は美濃・越前などの各地で生産され、 瀬戸・九谷・有田など優良な陶土のえられるところでは大量の陶磁器がつくられた。

江戸時代の外交・貿易とは

豊後に漂着したオランダ船リーフデ号の乗組員ヤン=ヨーステンは、外交顧問として徳川家康に重用され、平戸のイギリス商館設立に尽力した。ウィリアム=アダムズらが乗ったリーフデ号は、豊後臼杵に漂着した。徳川家康は、外交顧問としてウィリアム=アダムズを登用した。家康政権はポルトガル貿易を統制するために、京都・堺・長崎の特定の商人に糸割符仲間を作らせ、輸入生糸の一括購入をはからせた。

朱印船貿易とは

江戸時代初期に、伊達政宗は通商を求めて支倉常長をイスパニアへ派遣した。オランダ商館長は、幕府に対して『オランダ風説書』を提出した。 「鎖国」は、ケンペルの著書『日本誌』の一部が19世紀に翻訳されて登場してあらわれた言葉である。京都の茶屋四郎次郎などの豪商は、幕府から海外渡航の許可を得て朱印船貿易に従事し、東南アジアにまで商圏を拡大した。角倉了以は、京都の豪商である。

鎖国政策

徳川秀忠政権は貿易の制限などを目的として、中国船を例外としてすべての外国船の来航を並戸と長崎の2港に制限した。奉書とは、老中が海外に渡航しようとする日本船に発行した渡航許可証である。徳川家光は日本人の海外渡航を禁止し、すでに海外にいる者の帰国も禁じた。

キリスト教の禁教

徳川家光はキリスト教禁止の徹底をはかり、ポルトガル人を追放した。江戸時代初期には、ポルトガル商人によって中国産生糸が大量に輸入された。1641年、鎖国政策の一環として、オランダ商館が平戸から長崎の出島へと移され、鎖国が完成した。

島原・天草一揆

島原・天草一揆は、キリスト京都の多かった島原や天草の人々が、天草四郎(益田時貞)を大将にしておこしました。幕府に鎮圧されます。このころ、鎖国が完成し、幕府による禁教、貿易統制、外交独占の体制となりました。キリスト教徒を発見するために、キリストや聖母マリアの像を踏ませる絵踏や仏教の信者であることを証明する宗門改を行いました。

長崎の出島

江戸時代には中国人の居住地を、長崎の唐人屋敷に限定した。朝鮮との貿易は、対馬の宗氏が行い、朝鮮の釜山に優館が置かれていた。日中間には国交がなく外交使節の往来もなかったが、長崎での中国貿易などを通じて文物の交流がなされた。謝恩使が国王の代替わりごとに琉球から幕府に派遣された。

琉球王国

7世紀初め薩摩藩は琉球王国を占領し貢納させていたが、琉球国王は中国王朝の皇帝に対し臣下の礼をとっていた。 江戸時代初期には、日本の朱印船が東南アジアへ渡航して、さかんに貿易が行われた。

アイヌ

アイヌとの交易の独占を許された松前氏は、その交易権を知行として家臣に分与した。その後、交易は商人が請け負うようになった。アイヌのおもな交易品は、鮮や鯨、昆布などの海産物であり、和人は、本州から米や酒を持ちこんだ。17世紀半ばには、交易条件の悪化を一因としてシャクシャインの戦いが起こった。松前氏の先祖は、15世紀半ばに発生したコシャマインの戦いをしずめて勢力を伸ばした調崎氏である。渡島南部は和人の居住地、それ以外をアイヌの居住地と分けられていた。

江戸時代の幕末思想とは

日本の開国後はイギリス・フランスなどからも学術が導入され、西洋 の学問を学ぶ洋学という言葉が定着した。

佐久間象山の思想

佐久間象山(1811年から1864年没) は朱子学を学んでいたが、アヘン戦争に衝撃を受けて海防の重要性を痛感した。そして洋学の知識を吸収するとともに、西洋砲術を修得し、砲術や兵学の塾を開いた。佐久間象山は、「東洋道徳、西洋芸術」と説いた。「芸術」とは「技術」のことで、東洋の伝統的精神を基本としながら 西洋の科学技術を積極的に取り入れるという姿勢を表している。これと同様の考え方を表す語に「和魂洋才」がある。和魂洋才の理念は、幕末から明治にかけて西洋文明を受容する1つの指針となった。

吉田松陰の教え

長州(山口県)藩士であった吉田松陰(1830年からから1859年)は、佐久間象山の下で学び、対外危機意識を深めた。黒船で海外渡航を企てるが失敗し、郷里で誰値の身となった。その間、叔父が開設した松下村塾で高杉晋作・伊藤博文ら多数の志士や明治の指導者を育てたが、安政の大獄で刑死した。吉田松陰は「一君万民論(いっくんばんみんろん)」を唱え、藩の枠をこえてすべての国民が天皇の下に結集し、「誠」をもつて天皇に忠節を尽くすべきだと説き、尊王・討幕運動に大きな影響を与えた。

  • 尊王攘夷運動…天皇を結ぶ尊王論と外国の輸出を排除しようとする攘夷論が結びついて尊王攘夷論運動が起こりました。
  • 安政の大獄…大老の井伊直弼が幕府に反対した大名や武士、公家らは処罰。吉田松陰らを処刑。
  • 桜田門外の変…安政の大獄に反発した水戸藩の浪士たちが井伊直弼を暗殺。幕府は朝廷との融和を図る公武合体政策を進めました。

復古神道とは

幕末、百姓一揆や打ちこわしが続発する中、復古神道が地方の民衆の間に広まった。復古神道は人々の意識を変え、国民意識を高めた。

幕末の思想のころ

アヘン戦争(1840年から1842年)で、清がイギリスに敗れた(1840年から1842年)で、清がイギリスに敗れたことは、幕府や諸藩に大きな衝撃を与え、特に西洋の軍事科学技術導入の必要性が広く認誠され始めた。

アヘン戦争とは

1840年から1842年、アヘンを厳しく取り締まった清をイギリスが攻撃し勝利する。

  • 南京条約…アヘン戦争の結果、イギリスが清に結ばせた不平等条約。
  • 太平天国の乱…1851年から1864年、清でおこった洪秀全を中心とする反乱。貧富の差のない平等な社会を目指した。

江戸初期の文化

日光東照宮の陽明門は、徳川家康を祀る霊廟の門である。織豊政権期の華美で豪壮な建築文化は、日光東照宮など江戸時代初期の建造物にも引き継がれるが、この時代には、産後三のような簡素な美しさをたたえた数寄屋造も生み出されている。

朱子学

下の秩序や礼節を重んじた朱子学は、藤原爆落と彼の門人で暮府に登用された林羅山によってひろめられた。

  • 林羅山…1583~1657. 江戸時代初期の朱子学者の中心思想は、「存心持敬(日常の言動をつつしみ、本来の自己に立ち返ること)」と「上下定分の理(士農工商の身分秩序, 幕藩体制の正当化)」である。
  • 知行合一…理一元論による「知行合一」とは、行動を伴わない知識は本物ではないという実践重視の教えで、朱子の「先知後行」を批判する王陽明の根本思想である。

絵画

江戸初期から活躍していた久隅守景は、「夕顔棚納涼図屏風」など情感ある農村風俗画を描いた。 秀吉の朝鮮出兵の際に大名たちが朝鮮の陶工を連れ帰り、薩摩焼や有田焼などの基礎をつくった。 酒井田柿右衛門は上絵付の技法を修得し、赤絵磁器の製造に成功して、有田焼の名を高めた。

江戸初期の出来事

  • 関ヶ原の戦い…1600年石田三成らを倒す。
  • 江戸幕府…1603年徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府開く。江戸時代が始まる
  • 大阪の陣…1614年・15年豊臣氏を滅ぼして、権力を確立。
  • 幕藩体制…幕府と藩が全国の土地と人民を支配。
  • 幕僚…幕府が直接支配した土地。
  • 藩…大名の領地とその支配の仕組み。
  • 武家諸法度…大名を統制。無断の城改築などを禁止。
  • 参勤交代…大名が1年おきに領地と江戸を往復。五街道の整備につながる。3代将軍徳川家光が制定。
  • 禁中並公家諸法度…天皇公家の行動規制。

元禄文化

  • 吉田光由は『塵劫記』を著し、和算の普及に寄与した。
  • 関孝和は、高等数学の理論を組み立てて和算を大きく発展させ、『発微算法』を著した。
  • 将軍徳川綱吉は、湯島聖堂を建てて、林信篤(鳥岡)を大学頭に任じた。
  • 伊藤仁斎は古義学派を形成し、古義堂を開いて多くの門人を育てた。
  • 山崎闇斎は、儒教(朱子学)と神道を融合させて垂加神道を開いた。

朱子学

朱子学の一派である海南学派(南学)が土佐に起こった。その流れをくむ山崎闇斎門下の佐藤直方は、幕府の判断を支持し、元赤穂藩士の討ち入りを批判した。朱子学者の室鳩巣は、幕府に登用され八代将軍吉宗の信任を得た。朱子学が広く学ばれるようになったが、古学を提唱した山鹿素行のように、朱子学を攻撃して幕府によって赤穂に流される者もいた。山鹿素行の著書には、『聖教要録』がある。中江藤樹は、陽明学を提唱した。

古文辞学派の代表的人物である荻生想は、柳沢吉保に仕えて『政談』を著した。 『経済録』などの著述をもつ太宰春台は、赤穂藩士たちが、吉良 義央ではなく幕府と対決すべきであったと主張した。17世紀半ばには岡山藩が陽明学者の熊沢番山を招いたようにいくつかの藩では儒学思想にもとづいて家臣や領民を教化する破策がとられた。

歴史書

契沖は、古典の和歌を従来の伝統にとらわれずに綿密に考証し『万葉代匠記』を著した。17世紀末から18世紀初頭には、北村季吟が『源氏物語』などを研究して、『源氏物語湖月抄』を著した。江戸幕府は儒者の林羅山に命じ、日本の通史である『本朝通鑑の編纂という大規模な修史事業を行った。水戸家に生まれた徳川光圀は、家督を継いで藩政確立に努める一方、彰考館で歴史書である『大日本史』の編纂をはじめ、朱舜がを招いて学事にあたらせた。動物や薬草などの研究を行う本草学が発達した。

  • 本草学者の稲生若水が『庶物類集』を編集した。
  • 貝原益軒は『大和本草』を著し、本草学の基礎を築いた。
  • 安井算哲により、中国の暦を訂正した貞享暦が作成された。

文学

元禄文化を代表する浄瑠璃脚本家の近松門左衛門*は、竹本義太夫と結び多くの作品を残した。人形浄瑠璃は、浄瑠璃が新しい曲風の義太夫節と結びつくことによって発展した。日本永代蔵』などの浮世草子に、現世を生き抜く町人の姿が描かれた。

  • 浮世草子を創始した井原西鶴は、町人の愛欲の世界を奔放に描写し、営利の道を肯定的に描いた。
  • 松尾芭蕉は、松永貞徳ら貞門派や西山宗因ら談林派の俳風を学び、自己の俳風として正園(蕉風)を確立した。
  • 西山宗因らの談林派による俳諧がもてはやされた。

近世において女歌舞伎が禁止されると、これに代わって美少年が女役を演じる若衆歌舞伎が盛んになった。 江戸の市川団十郎は、立ち回りの勇壮な演技で売事役者としての名声を博した。

美術

江戸時代には、宮崎友禅が、友禅染の技法を開発した。 17世紀末から18世紀初頭には、尾形光跡が絵画のみならず、高絵の分野でも「八橋蒔絵硯箱」などの名作を残した。「紅白梅図屏風」などを描いた尾形光琳は、俵屋宗達の画法を取り入れ、洗練された装飾的表現をとった。 尾形乾山は京焼の大成者の野々村仁清の弟子である。菱川師宣は浮世絵を大成し、「見返り美人図」を残した。

化政文化

学問

西川知見は、中国・東南アジア・ヨーロッパなど世界各地域の産物を記した『華夷通商考』を著した。新井白石は潜入したイタリア人宣教師シドッチを尋問し、『西洋紀聞』を著した。徳川吉宗が野呂元丈らにオランダ語を学ばせたことを契機に、蘭学が芽生えた。

凶作時にも強い、甘藷の栽培法を研究した青木昆陽は、『蕃薯考』 を著した。また、本草学者の田村藍水は平賀源内のすすめで、江戸で最初の物産会を開いた。

近世後期には、大槻玄沢が『蘭学階梯』を著すなど、蘭学の普及につとめた。また、江戸に蘭学の私塾である芝蘭堂を設立して多くの子を養成した。

  • 杉田玄白らが西洋医学の解剖書『ターヘルニアナトミア』を翻訳した。
  • 志筑忠雄が『暦象新書』を著して、こュートンの力学やコペルニクスの地動説を紹介した。
  • 稲村三色は、最初の蘭日対訳辞書である『ハルマ剤薬』を訳出した。

蘭学の成果を吸収するために設けられた箇書和解御用(掛)では、洋書の翻訳などが行なわれた。 高保己ーは、日本の古典史料の刊行を進めた。

国学

本居宣長は、長年にわたって『古事記』を研究した成果を『古事記伝』としてまとめた。仏教や儒教が伝来する以前の日本人本来の思想を研究する学問として、国学を大成した。国学者の平田篤胤は、賀茂真淵の説をうけて復古神道を唱えたが、この説は豪農層の間にも普及した。

  • 伊能忠敬は全国の沿岸の測量を行い、『大日本沿海輿地全図』の作成にあたった。
  • 平賀源内は物理学の研究を進め、摩擦発電器(エレキテル)の実験を行い、寒暖計や不燃性の布などをつくった。

シーボルト

シーボルトは長崎郊外に鳴滝塾をひらいて医学の講義や実際の治療を行い、多くの人材がここで西欧の医学や博物学を学んだ。ドイツ人医師シーボルトは、帰国時に持ち出しを禁じられた日本 地図などを持ち出そうとして、国外追放となった(シーボルト事件)。19世紀前半、シーボルトが最新の日本地図を国外に持ち出そうとした事件で、幕府の役人高橋景保が処罰された。

  • 緒方洪庵により設立された適塾(適々斎塾)では蘭学が教授され、多くの人材を輩出した。

儒教

心学は、儒教道徳に仏教・神道の教えを取り入れてつくられ、商人の商業活動を正当なものとして認めた。心学は、倹約・正直などの徳目を庶民に説いた。手島堵庵は、庶民の生活倫理をわかりやすく説く心学の普及に努めた。

18世紀末、幕府は聖堂付属の学問所で生子学以外の学間を教えることを禁止し、さらにその後、学問所を幕府の学校とした。 江戸時代の中期以降に発達した藩校は、藩士の子弟の教育機関あった。

大坂の町人によって設立された懐徳堂は、山片蟠桃ら多くの町人学者を生みだした。る。

著書

開国による重商主義的国営貿易による富国策を主張した本多利明」は、『西域物語』や『経世秘策』を著した。近世中期、安藤昌益はその著『自然真営道』において、万人直耕の自然世を理想とすることを説き、身分制を強く批判した。 三浦梅園は、儒教と洋学を取り入れた条理学を唱え、『玄語』などを著した。

  • 山県大弐は尊王論の立場から幕府を批判して処罰された。
  • 竹内式部は、京都の公家に尊王論を説いて処罰された。

水戸の会沢安(正志斎)は、尊王攘夷論を主張した。会沢安(正志斎)や藤田東湖は、水戸学の発展に大きな役割を果たした。佐藤信淵は、産業の国営化と積極的な海外進出をとなえ、強力な統一国家の形成を主張し、『経済要録』を著した。 開港の必要性を論じた工藤平助は、『赤蝦夷風説考』を記し、暇夷地開発を主張した。林子平は『海国兵談』を執筆して、江戸湾の防備が手薄なことを指摘し、ロシアの南下に警告を唱えて海防論を展開したが、寛政 の改革で処罰された。

文学・芸能

『仮名手本忠臣蔵』の作者は竹田出雲である。近世中後期、菅江真澄は民衆の生活に関心を向け、『菅江真澄遊覧記』として信濃路から蝦夷地までの膨大な紀行日記を残した。江戸時代後期、鈴木教会は、雪国の生活や風俗を『北越雪譜』に描写した。

  • 小林一茶は、『おらが春』を著した。
  • 恋川春町の代表的な黄表紙に、『金々先生栄華(花)夢』がある。
  • 歴史を素材とした滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』など の読本が出版され、広く読まれた。

庶民文化に対する幕府の弾圧例の代表的人物として、洒落本作家の山東京伝 や浮世絵師の喜多川歌麿らが挙げられる。『春色梅児誉美』『春色梅暦』を著した人情本作家の為永春水は、天保改革期に、風俗を乱したという理由で処罰された。大田南畝らは、滑稽味のなかにも世相風刺をこめた狂歌を作った。 式亭三馬は滑稽本がさかんに出版されるなか、『浮世風呂』など、を書いて活躍した。

都市を中心に賃本屋が現れ、文化の普及に寄与した。出版物や貸本屋が普及する中、黄表紙と呼ばれる社会風刺や滑稽さを織りまぜた大人向けの絵入りの小説が盛んに作られた。河竹繁栄の弥は歌舞使作者として活躍した。

美術

  • 池大雅は与謝蕪村とともに『十便十宣図帖』を描いた。
  • 司馬江漢は、西洋画の技法により銅版画を制作した。
  • 亜欧堂田善は、西洋画を修得した。
  • 葛飾北斎らにより風景版画が出版された。その代表作に国試三十六景」がある。

江戸時代の大首絵は、上半身を大きく描く様式で、大首絵の画家としては、東洲斎写楽が著名である。幕末に輸出された浮世絵は、ヨーロッパ印象派の画家に影響を与えた。

江戸時代後期には伊勢神宮への参詣が盛行し、数百万人の参宮者があったという。 近世には寺社参詣や巡礼にあたっては、講という組織が結成されることがあった。信仰のための組織として、庚申講などがつくられた。江戸時代後期の四国遍路は、信仰上の目的だけでなく、遊興をともなう旅の名目ともなっていた。江戸時代の中期以降、「ええじゃないか」を連呼して乱舞する民衆の運動が起こった。近世の夏の祭礼盂蘭盆では、鎮守の森などで盆踊りが催された。

庶民の生活

葛飾北斎や歌川広重らの絵師は,主要街道の風景ばかりでなく、江戸・大坂の庶民生活や全国の景勝地をシリーズにした作品も描いている。安価な刷絵も普及し、それらに印象を受けた人びとは各地への関心を高めていった。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』 などの道中記は読者に対して街道の様子を伝え、旅の日程の情報も与えた。人気の高まりの背景には、寺子屋の教育による識字率の上昇や貸本屋による書物の普及があった

「かぶき者」は、徳川綱吉による取り締まりの強化から、次第に姿を消していった。元禄時代の将軍・徳川綱吉は、既存の法令や判例を集大成したり して(天和の武家諸法度など)、その治世の初期は、「天和の治」 とよばれる文治政治を推進した。朱子学を官学とし、湯島に聖堂を建立した。

  • 生類憐みの令を出して、犬をはじめとする鳥獣の保護を命じた。
  • 貨幣の質を落とした改鋳を行い、物価の騰貴を招いた。

元禄時代、荻原重秀は財政難を打開するために貨幣改鋳を行い、質を下げた元禄小判を発行した。しかし、貨幣価値の下落は、物価高騰を招く結果となった。徳川綱吉は側用人として、柳沢吉保を重用した。 江戸城や周辺の市街地は明暦の大火で大きな被害を受け、幕府財政を逼迫させる要因の一つとなった。

貨幣改鋳(詳しく)

徳川綱吉は、勘定吟味役荻原重秀(のち勘定奉行)の意見を用い て, 財政再建の方法として貨幣の改鋳にふみきった。荻原重秀は、金が8割以上もふくまれていた慶長小判の質をおとし、金を6割以下に減らした元禄小判を大量に発行して、その差益を幕府の収入とした。しかし、財政の危機は一時的に救われただけで、これにともなう物価の値上りが、庶民のはげしい不満をよびおこすことになった。

享保の改革

徳川吉宗の時代には諸物価の中で米価が相対的に安くなり、俸緑米を売って生活する武士はますます困窮した。享保改革の時期に、徳川吉宗が登用した青木昆陽が甘藷の栽培にあたったり、オランダ語を学んだりした。

土地改革

幕府は18世紀前半、薬用として朝鮮人参や、凶荒用食物として甘藷(さつまいも)などの栽培を奨励した。幕府は享保の改革で、定免法を採用し、年貢量は増加した。

定発法は一定の年貢率で本年貢を課すものであるが、それは永続的なものではなく一定の年限を設けるのが普通であった。町人請負新田などの新田開発が奨励された。徳川吉宗により町奉行に登用された大岡忠相は、市政改革を行うとともに、裁判の基準となる法典の制定などにあたった。

享保改革の時期に幕府は施政に関する意見や役人の不正に対する市民への投書箱である、目安額を設置した。実学奨励のために、キリスト教関係以外の漢訳洋書の輸入を認めた。大名は、財政窮乏に際して、家臣に対し半知の手段をとることがあった。金銀貸借についての争いが続発したため、幕府は相対済し令を出管借に関する訴訟を受け付けずに当事者間で解決させることにした。

財政政策

財政が悪化した江戸幕府では、収入増加の政策が推進された。その例としては、過去の平均年員量から年貢率を決める定免法を採用したことや、鉄座や真鍮歴による専売政策などが挙げられる。

田沼意次の政治

徳川家治の老中、田沼意次は、株仲間を公認し、彼らから営業税として運上を徴収した。「役人の子はにぎにぎどが見え」とは、田沼意次の時代に施設が横行したことを詠んだものである。 田沼意次は、朝鮮人参座をおいて朝鮮人朝鮮人参座をおいて朝鮮人参の専売制をいた。

田沼意次の時代には、金貨の単位で表された初めての銀貨である、南鎌二朱銀が鋳造された。俵物など海産物に輸出を疑励した。幕府内で権力を振るった田沼意次は、息子の意知が殺されるとともに失脚した。

新井白石の政治(正徳の治)

新井白石は海舶互市新例を出して、長崎の貿易額を制限した。さらに、輸入品の代金のうち銅で支払う分を増やし、金銀の流出を防ごうとした。新井白石が改鋳した正徳小判は、慶長小判と同程度の金含有率を持つ良質なものであった。正徳の治を実施した新井白石は、元禄小判を改鋳して良質な正徳小判を発行した。しかし、貨幣価値の変動によって経済に混乱を招く結果となった。

長崎貿易の制限

白石はまた長崎貿易を制限した。中国船やオランダ船によって輸入された品物は生糸を第一とし、毛織物・木綿・皮革類、白檀その他の木材などであったが、日本ではこれに対して金・銀・銅などで支払っていた。しかし金・銀の産出が減るとともに銅の輸出が増加したので、白石は1715(正徳5)年に海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)をだして、中国船とオランダ船の船隻数や貿易額を制限した。

文学

新井白石は江戸幕府の歴史において、学者がその理念を政治に。 反映させた事例として知られる。新井白石は世界の地理・風俗などを記した『来覧異言』を著した。朝鮮からの国書において将軍の呼称を大君から日本国王に改めさせ、将軍の地位を明確にしようとした。幕府は18世紀前半に朝鮮通信使の待遇を改善し、従来より簡素なものとした。宝永小判は元禄小判より金の含有率がふえたが、重量が減少したため貨幣価値は向上しなかった。

寛政の改革

江戸時代後期、農村では、田畑を手放して小作人となる農民が増加した。佐倉惣五郎の伝承に知られるように、処刑された一揆の指導者の中には代表越訴一を指導した義民として崇められる者がいた。19世紀には、村役人の不正追及などを内容とする村方騒動が各地で頻発した。摂津・河内・和泉の1000を超す村々の農民たちが、綿や菜種の自由販売を求めて国訴を起こした。 江戸時代後期、大坂周辺の農民は、特権商人による綿などの流通独占に反対して、大規模な訴願闘争を行った。享保の飢饉や天明の飢饉などに際して零細な暮らしをしていた町人が行った反抗運動を、打ちこわしという。

商業

18世紀半ば以降、藩の中には藍や紅花などの特産物の生産を奨励し、またその流通を独占するため、専売制を実施するところも あらわれた。藩の中には財政難の解消をはかったり通貨量 を増やしたりするために、独自に藩礼を発行するところもあらわれた。 薩摩藩は奄美三島を支配して、砂糖を生産させ、また琉球を通じて中国と密貿易を行った。

藩政改革

18世紀末には、幕政において松平定信により寛政の改革が行われ、諸藩でも18世紀後半から幕末にかけて藩政改革が実施された。18世紀には、秋田藩で藩主の佐竹業種が荒廃した農村の復興と特産物生産を奨励し、藩学(藩校)を振興した。肥後熊本藩では細川重量が、米沢藩では上杉治憲(鷹山)が、藩経営に成功して名君とされた。

社会の治安維持のために、江戸石川島には、無宿人らを収容する人足寄場が設置された。寛政の改革で白河藩主松平定信は、老中就任中に旗本、御家人の救援を目的として、借金の破棄、または利下げを命じる業指令を出した。江戸で町入用を節約させ、七分積金を行わせた。飢饉に備えるため、米穀の貯蔵を命じた。天明の大飢饉では、貧しい農民が増大していたために、東北地方を中心に多数の餓死者がでた。

徳川家斉から将軍補佐に命じられた松平定信は、1789年、墓領・大名領を問わず、全国の孝行者・忠義者などの調査を行い、全国の民衆教化のために『孝義録』を編集した。

対外関係の緊迫を説いて海防の重要性を主張した林子平は、蟄居(禁固)に処された。渡辺華山が幕府の対外政策を批判して、『慎機論』を著した。 山東京伝は、寛政の改革の風俗統制を受けて処罰された。

天保の改革

大塩平八郎の反乱は幕府の飢饉に対する処置に慣った者たちがおこしたもので、大塩平八郎がもと大坂町奉行所与力であったため、 幕府に衝撃を与えた。国学者の生田万は、越後柏崎の代官所を襲撃した。19世紀に、幕府は、関東農村の治安維持をはかるために、関東取締出役が設置された。

改革

天保の改革では、上知令を出して、江戸・大坂周辺を幕府直轄領に編入しようとしたが、多くの反対にあい撤回された。 農村人口確保のため、江戸に流入した農民を強制的に農村に返す、人返しの法が出された。

水野忠邦は、物価を引き下げるために、株仲間を解散させた。 異国船打払令を緩和して、新水給与令を出した。さらに、質素・倹約を厳しく命じて華美な風俗を禁止した。

近代化への動き

幕末、佐賀藩は反射炉を築造し、大砲を鋳造した。佐賀藩の鍋島直正は農村の再建をめざして均田割を実施した。長州藩の村田清風は、藩財政の再建をはかる一方、農具の不満をやわらげるため専売制を改革した。また、越荷方の制度を整えた。 こうして長州藩では、巨額の借財を整理するとともに、下関の越荷方を拡大して利益をあげた。

19世紀には、薩摩藩で藩主の島津斉彬が集成館と称する直営工場群を建設し、新たな産業の導入と軍事改革をすすめた。薩摩藩では、調所広郷が砂糖の専売強化や琉球貿易の増大をはかり、藩財政の建て直しに貢献した。農村工業が発達し、織物業などで一部にマニュファクチュア経営も現れた。工場制手工業(マニュファクチュア)では、農業から離れた賃労働者を雇って分業と協業による生産が行われた。

  • 問屋制家内工業…問屋から原料をかりうけた農家が行ったもので、はたおりなどの手工業。
  • 工場制手工業…19世紀ごろから登場した商人や地主から工場をつくり、人をやとって行う工業でマニュファクチュアとも呼ばれる。

練習問題

【問1】江戸時代後期の生活・文化について、以下のA・Bの記述をもとに、人びとが日本各地へ関心を強めていった背景を80字以内で説明しなさい。

A 伊勢参りや善光寺への参詣を一生に一度の念願とする人びともおり、大勢で伊勢に出向く御蔭参りも発生した。
B 歌川広重らが描く風景画の錦絵や、道中物の絵草紙は、人びとに日本各地への関心 を呼び起こした。

【問2】次の問いに答えなさい。

  1. 大御所時代の享楽的傾向を引き締め、商品経済の統制をはかり、幕府権力の強化をめざした幕政改革を何というか。
  2. 天保の改革を18年から実施した老中は誰か。
  3. 天保の改革は、享保の改革、寛政の改革にならったもので、農村の荒廃防止のため、百姓に出稼ぎを禁じ、江戸に住む窮民を強制的に農村に返すこととした。この政策は何か。
  4. 天保の改革ではきびしい風俗取締りもあわせておこなわれた。処罰を受けた人情本作家をあげよ。
  5. 水野忠邦が、高騰した江戸のき理するため、1841年に商工業者に対して出した法令で「素人直売買勝手」として自由競争の原理をとり入れたものは何か。

【問3】次の問いに答えなさい。

  1. 天明の飢饉の教訓をいかし、諸藩に対し石高に応じて米の貯蔵が命じられたが、これを何というか。
  2. 松平定信は、各地に穀物倉を設け、富裕者の義損や課税により拠出させた。これを何というか。
  3. 松平定信は、住民に分相応の米穀などを拠出させ穀物倉に備えるよう命じた。これを何というか。
  4. 松平定信は、江戸の町人に対しても町入用(町費)を節約させ、節減額の7割を江戸町会所に積み立て、低利融資で増殖をはかり、貧民救済にあてるよう指導した。これを何というか。
  5. 江戸の窮民対策として、浮浪人や再犯の恐れがある罪人などを収容して職業技術を習得させる施設が石川島に設けられた。それは何か。
  6. 1790年に発令された。江戸に流入した没落百姓の帰村や帰農を奨励する法は何か。
  7. 松平定信が、旗本・御家人を救済するために、札差らに6年以前の債務を破棄するよう命じた。 1789年の法令は何か。
  8. 江戸幕府が援助を与えていた林家の私塾である聖堂学問所では、柴野栗山らの建言で、松平定信により朱子学以外の学問が禁じられた。この政策を何というか。

【問4】徳川吉宗について次の問いに答えなさい。

  1. 1716年、7代将軍徳川家継が8歳で死去し家康以来の宗家が途絶えたあと、紀伊徳川家から迎えられた8代将軍は誰か。
  2. 家康の曽孫である8代将軍は、家康時代への復古を掲げ、側近政治をやめて改革をおこなった。財政再建・ 商業資本統制・法制の整備を柱とするこの改革政治を何というか。
  3. 徳川吉宗は旗本に対して、役職の標準石高を定め、それ以下の者が就任するとき、在職中のみ不足分を支給する制度をはじめ、人材の登用と支出の抑制をはかった。 この制度は何か。
  4. 徳川吉宗は増収策として「御恥辱をも顧みられず」と諸大名に八木(米)の上納を命じた。この政策は何か。
  5. 徳川吉宗は、旗本・御家人と札差の間に激増する貸借訴訟に対し、評定所ではいっさい受理せず、すべて当事者間の和談で解決させる法令を出した。これは何か。
  6. 徳川吉宗は幕領に対し、従来の検見法による年貢納入を改めて、豊凶にかかわりなく税率を一定にする方式を広く採用し、年貢増徴をめざした。この方式を何というか。
  7. 徳川吉宗は商業を統制するため、問屋商人に同業者団体を組織させ、独占的営業を公認した。その同業者団体を何というか。
  8. 徳川吉宗が長崎貿易における輸入品目の規制をゆるめて、この時期にキリスト教関係以外について輸入制限をゆるめたものがある。それは何か。
  9. 商品経済の発達に伴い、吉宗が栽培をすすめた作物・ 薬草などを2つあげよ。
  10. 徳川吉宗が庶民の意見を求めるため,評定所前に置いた投書箱を何というか。
  11. 目安箱の投書により、徳川吉宗は貧民を対象とする医療施設を設けた。それは何か。
  12. 目安箱の投書により、徳川吉宗は江戸の消防組織づくりを町奉行大岡忠相に命じた。このときに結成された消防組織を何というか。
  13. 徳川吉宗は法制を整えるため、老中を主任に命じ、三奉行らに上下2巻の刑事・行政関係の法令や刑法・訴訟法に関する規定を編纂させた。それは何か。

解答

【問1】寺社参詣に向かう人びとは道中でさまざまな文物にふれ、講などを通して周囲にも伝えられた。風景画の錦絵や絵草紙も地理的な情報を提供し、人びとの各地への関心を高めた。

【問2】

  1. 天保の改革
  2. 水野忠邦
  3. 人返しの法
  4. 為永春水
  5. 株仲間解放令

【問3】

  1. 囲米
  2. 義倉
  3. 社倉
  4. 七分積金
  5. 人足寄場
  6. 旧里帰農令
  7. 棄捐令
  8. 寛政異学の禁

【問4】

  1. 徳川吉宗
  2. 享保の改革
  3. 足高の制
  4. 上げ米
  5. 相対済し令
  6. 定免法
  7. 株仲間
  8. 漢訳洋書
  9. 甘藷、朝鮮人参など
  10. 目安箱
  11. 小石川養生所
  12. 町火消
  13. 公事方御定書

解説

【問4】
4.大名に対し石高1万石につき100石の米を上納させる制度 が実施された1722~30年の間は、参勤交代での諸大名のエ 戸在府期間が半減された。これにより幕府は年18万7000石 の収入をあげた。享保の改革での財政再建策には、支出の 抑制をはかるためのきびしい倹約令もあった。

9.徳川吉宗は産業開発に役立つ実学を奨励した。吉宗の命でオ ランダ語を学習して「和蘭文字略 考』を著した青木昆陽は、 備荒作物としての甘藷栽培にもつうじ『著著考』を著した。 なお, 甘庶はさとうきびのこと。

13.この編纂にあたったのが、大岡忠相ら。なお、1615年以降の触れを類別に編纂したのが御触書寛保集成。

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