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【大学入試対策】日本史の記述問題対策問題|国公立大学編

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【大学入試対策】日本史の記述問題対策問題|国公立大学編です。

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日本史の記述問題対策問題(国公立大学編)

(1)1920年代の女性解放運動において、市川房江と平塚らいてうが行った運動について、100字以内で説明せよ。

(2)戦国時代から全国統一へと向かう過程で南蛮貿易と宣教師の布教活動があたえた影響を、次の語句を用いて120字以内で説明しなさい。
( 鉄砲・天正遣欧使節・バテレン追放令 )

(3)次の2つの分国法の条文から、戦国大名が農村と農民をどのような方法で支配しようとしていたか、80字以内で説明しなさい。

  1. 朝倉孝景条々(朝倉敏景十七箇条)…「朝倉が館之外、国内□城郭を構へさせまじく候。惣別分限あらん者、一乗谷へ引越、郷村には代官ばかり置かる可き事。」
  2. 塵芥集…「百姓、地頭の年貢所当相つとめす、他領へ罷り去る事、盗人の罪科ハたるへし。」

(4)鎌倉時代の農村のくらしについて、120字以内で説明せよ。

(5)下の資料(「後漢書」東夷伝の和訳)から、倭では2隻の後半に小国間の対立と抗争が展開されたことが読み取れます。小国間の関係の特徴について60字以内で説明せよ。

「建武中元二年(57)、倭の奴国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。倭国の最南端にある。光武帝は印綬を賜った。安帝永初元年(107)、倭国王の帥升等が百六十人の捕虜を献じ、参内し天子にお目にかかることを願い出た。『桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし』」(資料)

(6)次の年号をもとに、この時期の文化の特徴を60字以内で説明しなさい。

  • 1883年 東京日比谷に鹿鳴館を建設
  • 1885年 坪内逍遙が『小説神髄」を発表。洋式の髪型普及をめざす「婦人束髪会」の結成
  • 1886年 森有礼文相が学校令を公布
  • 1887年 徳富蘇峰が民友社を結成し「国民之友」を発刊
  • 1888年 三宅雪嶺が政教社を結成し、『日本人』を発刊
  • 1889年 陸潟南が新聞『日本』を発行

(7)欧米列強との条約改正交渉は国内の法典整備にどのような影響を与えたか、120字以内で説明しなさい。

(8)鎖国が完成し、幕府による禁教、貿易統制、外交独占の体制となりました。禁教については、どのような政策を実行したか、60字以内で説明しなさい。

(9)征韓論争が、国内政治にあたえた影響を、100字以内で説明しなさい。

(10)江戸時代後期の生活・文化について、以下のA・Bの記述をもとに、人びとが日本各地へ関心を強めていった背景を80字以内で説明しなさい。

A 伊勢参りや善光寺への参詣を一生に一度の念願とする人びともおり、大勢で伊勢に出向く御蔭参りも発生した。
B 歌川広重らが描く風景画の錦絵や、道中物の絵草紙は、人びとに日本各地への関心 を呼び起こした。

(11)墾田永年私財法の目的と結果について100字以内で説明しなさい。

(12)桓武天皇の仏教政策の特色を、「最澄」「平安京」の語句を用いて80字以内で説明せよ。

(13)保元の乱・平治の乱に共通する意義について、80字以内で説明せよ。

(14)10世紀の律令制度の転換期のなかで浄土教が貴族層に広まった事情を、「空也」「末法思想」の語句を用いて80字以内で説明せよ。

(15)(藤原氏の北家が国政上の権限を掌握した摂関政治について、冬嗣の子の良房とその養子の基経が活躍した9世紀と、道長・頼通父子のもとで全盛期を迎えた11世紀とを、次のAとBの点で比較し,それぞれ80字以内で説明しなさい。(A)両者の経済的基礎(B)権力集中の方法とその実行

(16)推古天皇の時代におこなわれた遣隋使の派遣は、5世紀の倭王武による宋への使節派遣以来、約120年ぶりのことだが、隋への使節派遣の背景について、「倭の五王」の時代との違いを含め、以下の国名(王朝名)を用いて80字以内で説明しなさい。
王朝名:(隋)(高句麗)(百済)(新羅)

(17)大宝律令でめざした徴税などの律令体制は、10世紀には現実的な修正を迫られていた。そのうち10世紀における人民や土地の支配方法の変化や、地方支配は誰 がになうようになったのかについて,以下の語句を必ず用いて80字以内で説明しなさい。

(18)次のア・イ・ウはすべて1897(明治30)年に起きたものだが、これらがこの時期に起きた背景を120字以内で説明しなさい。
ア 貨幣法を改正して金本位制度を導入した
イ 綿糸の輸出量が輸入量を上まわった
ウ 官営八幡製鉄所の建設をはじめた

(19)縄文時代と弥生時代の生活様式や信仰、居住地域の違いが伝わるように、縄文時代の生活の特徴を80字以内で説明しなさい。

(20)1840年から1842年起こった戦争でアヘン戦争では、アヘンを厳しく取り締まった清をイギリスが攻撃し勝利した。清がイギリスに敗れたことで、幕府や諸藩にどのような影響を与えたか、80字以内で説明しなさい。

日本史の記述問題対策問題(国公立大学編)の解答

解答例になります。以下のようなことが記述できているといいでしょう。

(1)女性解放運動の指導者である市川房江は、「青鞜」を創刊する平塚らいてうらと新婦人協会を結成して女性の政治参加を訴えた。1924年には、婦人参政権獲得期成同盟会を作り、第二次世界大戦後には参議院議員となった。

(2)鉄砲の伝来は、それまでの戦法や城の構造に変化をもたらした。貿易をのぞむ大名は、布教活動を保護した。宣教師のすすめで天正遣欧使節を派遣したキリシタン大名のなかには、教会に領地を寄進する者もいたため、バテレン追放令で宣教師は国外に追放された。

(3)家臣を城下町に移住させ、農村への直接的な影響力を失わせようとした。また、農民の村内定住を強制し、年貢を確実に納入させることで、支配力を農村までおよぼそうとした。

(4)農村では、農具をつくる鍛冶屋、衣服の染物を行う紺屋などの手工業者が住みようになった。寺社の門前や交通の便利なところで決まった日に開かれ、米や布などの商品を並べて売る定期市も開かれた。土地の開発は農民が行い、民衆の団結が強まった。

(5)高地性集落などから推定される小国間の大きな争いを経て、邪馬台国を中心にして卑弥呼を女王とする政治連合体が成立した。

(6)教育や文学のほか、生活習慣にまで西洋化が浸透する一方、急激な西洋化が引き起こした諸問題を国民に説く言論活動も活発化した。

(7)不平等条約の改正が国家の独立と富国強兵をめざす政府にとっての重要課題とされ、欧米にならった法典の編纂が急がれた。主要な法典は西洋を模範として起草されたことから、日本の伝統的な倫理が破壊されるとの批判も起こり、修正して公布されることもあった。

(8)キリスト教徒を発見するために、キリストや聖母マリアの像を踏ませる絵踏や仏教の信者であることを証明する宗門改を行った。

(9)征韓論争は不平士族に支えられていたこともあり、西郷隆盛・板垣退助らが辞職すると政府批判の運動がはじまった。板垣らによる民撰議院設立の建白書の提出は自由民権運動の口火となり、各地で士族反乱もあいついだ。

(10)寺社参詣に向かう人びとは道中でさまざまな文物にふれ、講などを通して周囲にも伝えられた。風景画の錦絵や絵草紙も地理的な情報を提供し、人びとの各地への関心を高めた。

(11)開墾地は輸和田であるため、土地の私有を認めることにより、土地支配の強化をはかろうとした。貴族や大寺院が地方豪族と結びつき大規模な開墾が展開され、輸和田は確保されたが、初期荘園が形成される契機となった。

(12)道鏡らの仏教勢力が起こした政治的混乱を避けるため、長岡京・平安京への南都の大寺院の移転を認めず、最澄による天台宗など新しい仏教を支持して鎮護国家にあたらせた。

(13)京都を舞台に展開された争乱で、はじめて武士が本格的に動員された。貴族社会内部の争いも武士の実力で解決されることが明らかとなり、中央での武士の政治的地位が高まった。

(14)摂関家による権力争いや地方政治の乱れを背景に、現世を否定して極楽往生を求める空也の教えが中下級の貴族のあいだに広がり、末法思想が阿弥陀仏への信仰に拍車をかけた。

(15)
A 9世紀は、官人としての給与とみずから開発した荘園からの収入が主だった。11世紀には、寄進を受けた荘園からの年貢や公事と、中小貴族からの任官を目当てとした貢物が加わった。
B 9世紀は外戚の地位が安定せず、他氏も勢力を保った。他氏排斥を完成させた11世紀では、道長を外祖父とする天皇が3代続くとともに、公卿の多数を占めて、官吏の任免権も掌握した。

(16)隋帝国の統一により、高句麗・百済、続いて新羅が使節を派遣して朝貢し、冊封を受けた。これにより情を中心とする国際秩序が形成されたが、日本は冊封を受けなかった。

(17)戸籍作成と班田収授が滞り、公民を把握できなくなった。郡司の地方行政機能が低下し、徴税請負人化した受領の率いる在庁官人が国衙をにない、公地は負名体制に再編された。

(18)日清戦争後、政府は清国から得た影響をもとに本位制を導入し、賃整価値の安定と貿易の振興を行った。機械制生産を行う大規模工場が設立されて、綿糸の輸出が急増し、官営事工場の拡充と重工業の基難となる影場の国産化による軍備拡張も急がれた。

(19)落葉広葉樹林での採取やサケ・マス漁が容易な東日本で栄えた。金属器や農耕儀礼を持たない小集団が台地を移動し、自然物を崇拝する身分差や経済格差の小さい社会を築いた。

(20)幕府や諸藩に大きな衝撃を与え、特に西洋の軍事科学技術導入の必要性が広く認誠され始めた。このアヘン戦争をきっかけに幕府は鎖国政策の変更を命じることになった。

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