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【高校日本史】明治期の近代文化の要点ポイント

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【高校日本史】明治期の近代文化の要点ポイントです。

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明治時代の近代文化

思想と信教においては、中江兆民は、『民約訳解』でフランス革命の原理となったルソーの思想を紹介した。 自由民権運動の理論的指導者で、「東洋のルソー」と言われた。

19世紀後半には、人間の自由・平等を説いた天賦人権思想が導入された。 徳富蘇峰は、民友社をつくり、雑誌『国民之友』の発行などの出版活動を行って、平民主義を説いた。内村鑑三などキリスト教徒の思想家もあらわれた。

明治期の教育

教育勅語を発布し、忠君愛国の精神を教育の基本においた。森有礼は小学校令を公布し、原則として義務教育を4年と定めた。1886年に、政府は文部大臣森有礼のもとで一連の学校令を公布し、東京大学を帝国大学に改組した。近代になると教育令で4年間の義務教育制度が導入されたことに。より、識字率は大幅に高まった。1903年には、文部省が国家主義教育を強化するために、小学校の教科書を国定化した。日露戦争後、義務教育の年限は6年になり、就学率は9割をこえた。

明治期の学校

  • 津田梅子は岩倉使節団に随行してアメリカに留学し、帰国後には女子英学塾を創設した。
  • 福沢諭吉は、慶應義塾を創立した。
  • アメリカ滞在中に岩倉使節団の随員に任命された新島譲は、キリスト教を熱心に学んで帰国し、キリスト教主義にもとづく同志社 (同志社英学校)を設立した。

明治期の学問

幕末から明治初期にかけて欧米に留学した体験をもつ人々の多くは、政府・民間にかかわらず、西洋近代の制度や思想を積極的に紹介し、それを政策に生かそうとした。明治政府に雇われた外国人技術者(「お雇い外国人」)が、欧米の産業技術の導入に貢献した。日本の近代化の進展のために、「お雇い外国人」にかわって近代化の担い手となったのが、新しい技術や文化を学んで帰国し、教員や技術者として活躍した留学生たちであった。明治時代初期には、アメリカ型の農業技術の導入を目的に、札幌農学校”が設立された。

お雇い外国人

  • クラークは、札幌農学校の創設に参加した。
  • ベルツは、東京帝国大学で医学を講義した。
  • ロエスレルは、大日本帝国憲法の起草に貢献した。
  • ボアソナードは、民法制定の顧問に就任した。
  • アメリカ人宣教師のヘボンは幕末の開港後に日本を訪れ、日本語をアルファベットで表記するヘボン式ローマ字を発明した。

明治期の医学

明治以降、医学の発達はめざましく、北里柴三郎志賀潔らにより、新たな病原菌の発見があいついだ。鈴木梅太郎がオリザニンの抽出に成功し、ビタミン学説の基礎を確立した。日露戦争前の時期には、長岡半太郎が原子模型の理論を発表し、物理学で大きな貢献をなした。明治後期に高峰譲吉は、アドレナリンを発見した。田口卯吉は、文明史論を叙述する立場から『日本開化小史』を著した。久米邦武が神道に批判的な論文を書いて非難され、大学を辞職に追い込まれた。

明治期の文学

明治初期に発行された新聞は、政治評論中心のものからしだいに報道・娯楽中心のものにかわっていった。仮名垣魯文はその作『安愚楽鍋』などで、文明開化の新風俗を巧みに描写した。坪内逍遙は『当世書生気質』を著して明治期の学生像を描いた。1887年に発表された二葉亭四迷の『浮雲』は、言文一致体という新たな形式で書かれた小説である。

20世紀初頭から1910年代にかけての時期には、ゾラなどの影響をうけた自然主義の小説が文壇の主流になった。その代表的作品 に田山花袋の「蒲団」がある。久米邦武は、「神道は祭天の古俗」と論じて、神道家たちから攻撃を受けた。樋口一葉は、『にごりえ』や『たけくらべ』で知られる女性文学者である。

明治期の美術

狩野芳崖は、『悲母観音』が代表作である。高橋由一は、江戸時代末期に幕府によって設立された番書調所内の画学局に入学し、洋画を学んだ。高橋由一は、明治になって新しく造られた道路や橋、トンネルなどの土木事業を描いた作品も多く残している。黒田清輝は、印象派(外光派)の画風を伝えた。 コンドルはニコライ堂を建築した。近代日本の芸術や文芸思潮は、外国人の貢献や外国に学んだ経験に負うところが多かった。たとえば、建築では、イギリスで勉学した辰野金吾の設計による「日本銀行本店」「東京駅」などの作品が生まれた。

彫刻家の荻原守衛や西洋画家の黒田清輝らは、渡欧して西洋美術の作風を学んだ。1907年、西園寺公望内閣のとき、第一回文部省美術展覧会(文展)が開催され、美術界へ大きな影響を与えた。明治期には伝統的な歌舞伎も依然人気があったが、西洋演劇も始まって、大正期には女優松井須磨子らが活躍した。岡倉天心らは、日本美術院を結成して伝統美術の発展をはかった。

明治期の国民生活

実用的な西洋風の衣食住の生活は、官庁・学校・会社・軍隊などを中心に普及し、しだいに都会の一般家庭にもひろまった。1880年代から公共施設に電灯がともり、明治末期には一般家庭にもひろく用いられるようになった。大都会の中心部には、煉瓦造の洋風建築が建ちならぶようになった。肉食の習慣や洋服の着用もひろまったが、洋服で通勤し、家庭では和服でくつろぐというように、人々は洋風と和風の生活様式をたくみに使い、鉄道・郵便・電信の発達に加え、1890年代には電話事業もはじまった。このような交通・通信手段の発達により国民の生活 圏は拡大し、せまい地域社会の範囲をこえた国家意識や国民としての自覚と一体感を庶民層にまでおしひろげることになった。

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