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【高校日本史探究】奈良時代のテスト対策問題・要点解説

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【日本史探究対策問題】奈良時代の問題です。

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【対策問題】奈良時代の問題

【問1】墾田永年私財法の目的と結果について100字以内で説明しなさい。

【問2】次の問いに答えなさい。

  1. 710年から784年までの間、7人の天皇が奈良盆地北端部を都とした時代を何というか。
  2. 奈良盆地北端部に都城を築き遷都した天皇は誰か。
  3. 奈良盆地北端部に築かれた都城を何というか。
  4. 平城京の都城域内で中央を南北に走る大路を何というか。
  5. 都の左京・右京に設けられた官営の市場を何というか。
  6. 東市・西市の市場を管理した役所を何というか。
  7. 唐の銭貨にならい、708年に鋳造された銭貨を何というか。
  8. 和同開珎の銭貨以後、10世紀半ばまでに律令国家によって鋳造された銅銭の総称をあげよ。
  9. 711年、政府が銭貨の流通をはかって出した法令を何というか。
  10. 律令国家のもと,都と国府を結ぶ主要道路(駅路)が整備され、約16kmごとに、官吏が公用に利用するための馬や宿などを提供する施設が設けられた。この施設を何というか。
  11. 中央政府の支配に属さなかった東北地方の人々のことを何とよんでいたか。
  12. 7世紀半ばに、蝦夷の人々を支配するため、日本海側の前線基地として設けられた城柵を2つあげよ。
  13. 7世紀後半の斉明天皇の時代に、北陸方面に派遣され、秋田地方・津軽地方にまで遠征した人物は誰か。
  14. 712年、日本海側に新設された国を何というか。
  15. 陸奥の国府と鎮守府が置かれた。現在の宮城県にあった蝦夷支配の根拠地はどこか。
  16. 九州南部に居住し、中央政府の支配に抵抗して720年 には大隅国司を殺害して乱を起こした人々を何というか。
  17. 8世紀初めに, 九州南部に相次いで新設された2つの国の名をあげよ。
  18. このころ行政区画化された薩南諸島の島々を1つあげよ。

【問3】次の問いに答えなさい。

  1. 8世紀、平城京を中心として栄えた高度な貴族文化を何というか。
  2. 712年、元明天皇の時代に完成した。 漢字の音・訓を用いることによって文章を表記している歴史書を何というか。
  3. 「古事記」の歴史書のもととなった5世紀末から6世紀前半ごろに成立したとされる皇室の系譜および朝廷の説話・伝承をそれぞれ何というか。
  4. 天武天皇の命を受け、「帝紀」「旧辞」の系譜および説話・伝承を誦習したのは誰か。
  5. 稗田阿礼の人物が誦習した内容を筆録して古事記を完成させたのは誰か。
  6. 720年に完成した官操の正史を何というか。
  7. 「日本書紀」の歴史書編纂の中心人物は誰か。
  8. 「日本書紀」の歴史書に続いて、10世紀初めまで5つの官撰の正史が編纂されたが、「日本書紀」の歴史書を含めたこれらの 6つの正史を総称して何というか。
  9. 713年、諸国に編纂が命じられた地誌を何というか。
  10. 751年に成立した。現存最古の漢詩集を何というか。
  11. 淡海三船とともに天平期の文人として知られ、日本最初の公開図書館「若手」を設立したのは誰か。
  12. 天平期までの和歌など約4500首を集めた歌集を何というか。
  13. 「万葉集」の歌集に収録された歌のうち、地方農民の素朴・素直、親子・夫婦の哀別の感情がうかがえる歌としてどのようなものがあるか。
  14. 天皇の権威などを、力強く・荘重・雄大に歌い上げた白鳳期の万葉歌人は誰か。
  15. 万葉集の歌人のうち、才気に富み、優雅で格調の高い歌を詠んだ白期の女性歌人は誰か。
  16. 自然を詠んだ宮廷詩人と大宰帥・大納言を歴任した歌人と「万葉集」の編者といわれている人物を順にあげよ。
  17. 律令国家の教育機関で、中央に置かれ、貴族の子弟を 教育した機関を何というか。

【解答】奈良時代の問題

【問1】開墾地は輸和田であるため、土地の私有を認めることにより、土地支配の強化をはかろうとした。貴族や大寺院が地方豪族と結びつき大規模な開墾が展開され、輸和田は確保されたが、初期荘園が形成される契機となった。

【問2】

  1. 奈良時代
  2. 元明天皇
  3. 平城京
  4. 朱雀大路
  5. 東市・西市
  6. 市司
  7. 和同開珎
  8. 本朝十二銭
  9. 蓄銭叙位令
  10. 駅家
  11. 蝦夷
  12. 淳足柵、磐舟柵
  13. 阿倍比羅夫
  14. 出羽国
  15. 多賀城
  16. 隼人
  17. 薩摩国、大隅国
  18. 種子島、屋久島

【問3】

  1. 天平文化
  2. 古事記
  3. 帝紀・旧辞
  4. 稗田阿礼
  5. 太安万侶
  6. 日本書紀
  7. 舎人親王
  8. 六国史
  9. 風土記
  10. 懐風藻
  11. 石上宅嗣
  12. 万葉集
  13. 東歌、防人歌
  14. 柿本人麻呂
  15. 額田王
  16. 山部赤人、大伴旅人、大伴家持
  17. 大学

奈良時代の定期テスト対策問題の解説

【問2】
3.都は東西約4.3km、南北約4.8kmで、東西南北とも4町ごとに大路で区切られ、4町四方各区画は条坊で示された。

4.朱雀大路の北側に平城宮と朱雀門が、南側に羅城門が位置した。朱雀大路の東側の地域を左京、西側の地域を右京という。唐の都である長安をモデルに造営されたが、長安にはない外京が左京の東側に設けられた。

5.この市場で、地方から運ばれた産物や官吏に支給される布・糸などが交換された。

7.すでに7世紀の天武天皇のころ、富本銭とよばれる貨幣が鋳造されていたが、流通は限定的であったと考えられている。

9.稲・布などの物品による取引がおこなわれていたため、銭貨は京・畿内のほかの地域ではあまり流通しなかった。そのためこの法令が出され、従六位以下は10貫、初位以下は5貫の銭を蓄えると、位を1階進めることとした。

【問3】
1.聖武天皇の時代を中心に、盛唐の影響を受けた国際色豊かな文化で、律令国家最盛期を反映する高度な貴族文化、仏教色の濃い文化である。

2.日本古来の歌謡や固有名詞などを、漢字で表すことに苦心を払いながら、神代から推古天皇の時代までを記載している。

6.中国の史書にならいで書かれた生体による歴史書で、特代から持統天皇の時代までを記載している。

8.『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳』『天皇実録』『日本三代実録」の6つの正史を六国史という。

9.現存する「常陸国風土記」「出雲国風土記」「播磨国風土記」「豊後国風土記」を五風土記といい、『出雲国風土記』のみ完成本である。

17.大学の教科は、信教の経典を学の発法律を学ぶなどがあり、9世紀には漢文・歴史を学に紀伝道も生まれた。

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【要点】奈良時代

大宝律令を施行した文武天皇が若くしてなくなったあと、その母が即位して元明天皇となると、710(和銅3)年に平城京をきずき、藤原京からここに都を移した。これは律令国家の成長にあわせ、水陸の交通が便利で、宮都にふさわしい土地だったからだと推測される。以後、都が平安京(京都)に移るまでの80年あまりを奈良時代という。

政府はその前後から支配の領域の拡大につとめた。まず8世紀初め、東北地方では陸奥国と越後国をわけて出羽国をおき出羽柵・多賀柵(のちの多賀城)などを設け、同じころ九州南部でも、日向国をさいて大隅国を設け、多執島(種子島)なども領土に編入した。以上のように。蝦夷や隼人に対する統治もされた。平城京の市は官営で、東西の市司が管理していた。

  • 市司…平城京の左京・右京に設けられた市を監督した。
  • 衛士…諸国の軍団から都に上京し、宮門の警備を行った。

金石文や平城京などの古代の都城遺跡から多数発見される木簡によって、史書に記されていない歴史的事実を知ることができる。

秋田城は8世紀前半の天平年間に、蝦夷支配の拠点の一つとして 出羽国に設置された。東北地方の陸奥・出羽両国には、蝦夷の勢力を支配するために、秋田城のほか、多賀城・胆沢城がつくられ、多賀城には鎮守府が置かれた。 薩摩・大隅地方の人はしばしば中央政府に反抗したが、8世紀前半には最終的に鎮圧された。 蓄銭叙位令を出した元明天皇は、皇位を娘に譲った。海路で唐に渡る場合、7世紀には、朝鮮半島沿岸を通る北路が使用されたが、8世紀には、新羅との関係が悪化したので南路をとった。 遣唐使が渡航に用いた経路では、南路は北路に比べて航海上の危険性が大きかった。

長屋王は親王(天皇の子や兄弟)と記されているが、天武天皇の孫であり、藤原不比等の死後実権をにぎったが、天皇家と結びつき勢力を拡大した藤原四子と対立し、策謀により自殺させられた。1988年、平城京の邸宅跡から大量の木簡が出土したが、その記
録から邸宅の主は長屋王であることが判明した。 長屋王政権の下で、口分田不足を補うため、百万町歩開墾計画や、三世一身法がだされた。

  • 三世一身法…未開地を開墾した場合は三世にわたり、既墾地を開墾しなおした場合には本人一代にわたりその保有を認めた。

聖武天皇の政治

聖武天皇は国分寺建立の詔、大仏造立の詔をだした。

  • 鑑真…何度も遭難しながらも、日本へ渡って仏教の戒律を伝えた。
  • 藤原仲麻呂…養老律令を施行した。
  • 光明子…仏教を信仰し、貧窮者の救済をめざして悲田院・施薬院を置いた。

737年に、藤原不比等の四子が疫病で死亡したことにより、藤原氏の勢力は衰えた。 8世紀には、藤原広嗣が聖武天皇の信任厚い玄防や吉備真備らの排除を求めて大宰府で反乱を起こし、失敗に終わったが、政界に大きな動揺を与えた。

  • 玄助…橘諸兄の政権に参画したが、藤原仲麻呂の台頭により失脚した
  • 孝謙天皇…東大寺大仏の開眼供養を行い、譲位して上皇となった。
  • 墾田永年私財法…開墾地の私有を永年にわたって認めた法がだされた。

墾田永年私財法

墾田永年私財法は、政府の掌握する田地を増加させることにより土地支配の強化をはかる積極的な政策であったが、その一方で貴族・寺院や地方豪族たちの私有地拡大を進めることになった。墾田の面積は身分に応じて制限され、一部の親子や一位の貴族の500町から初位以下庶民の場合の10町まで差が設けられていた。また墾田は、種を納めるべき輸和田であった。

奈良時代中期には、国府の周辺に国分寺や国分尼寺が建立された。仏教を重んじた称徳天皇は、太政大臣禅師の地位を設けた。奈良時代には貴族は、朝廷から封戸を得るなどの特権が与えられた。

  • 道鏡…称徳天皇の支持により法王となって権力を握り、荘園開発を寺院だけの特権とするために、墾田永年私財法を停止するなどした。
  • 和気清麻呂…藤原百川らとともに、皇位に就こうとする道鏡の企 てを阻止した。

光仁天皇の時代には、東北地方で起こった伊治階麻呂の乱の鎮圧に努めた。律令政府は、都と諸国を結ぶ官道を整備し、駅家を置いて地方との連絡に利用した。

天平文化

8世紀の文化は平城京を中心にさかえ、聖武天皇のときの年号をとって天平文化とよばれている。

律令国家の支配層である貴族には、国の歴史や国土・産物についての知識がもとめられるようになった。712(和銅5)年にできた『古事記』は、天武天皇のとき古くから伝わる『帝紀』『旧辞」を稗田阿礼に命じてよみならわせたものを、元明天皇が太安麻呂(安万侶)に筆録させたものである。

720(養老4)年にできた『日本書紀』は、舎人親王らが中国の史書の体裁にならい国家の正史として完成させたものである。これと前後して、政府は713(和銅6)年、国ごとに土地の産物・地名の由来、古老の伝聞などを記録し、言上するよう命じた。これをうけて国司の報告したものが風土記で、まとまったものとしては常陸・播磨・出雲・豊後・肥前の5カ国のものが残っている。

正倉院に納められているのは光明皇太后により献納された聖武天皇の遺品が中心である。正倉院の『鳥毛立女屏風』には、衣服や木の葉の部分に、彩色の代わりとして鳥の羽が貼りつけてあった。宝庫には、聖武天皇の遺品として、(正倉院)螺鈿紫檀五絃琵琶などが収められている。

  • 蘆舎那仏…紫香楽で造立が開始され、平城京に都が戻されたのちに東大寺の大仏として完成した。
  • 興福寺…平城京に営まれ、藤原氏の氏寺として藤原氏一族や天皇の信仰も篤く、都が平安京に遷ってからのちも大きな勢力を保った。

奈良時代には、官営の大寺院や国分寺で鎮護国家のための法会が行われた。南都六宗で、仏教教理の学問的研究に力がそそがれた。寺院の多くは都の市中や周辺に建てられていた。寺院が山中に建てられるようになるのは、平安時代以降である。

  • 鑑真…東大寺において僧侶らに戒律を授け、またその晩年に唐招提寺を創建した。
  • 行基…法令にそむいたの行基の民間布教は、政府によって禁圧された。

我が国の仏教は、南北朝の大陸文化に強い影響をうけた結果、7世紀後半以後、国家仏教的性格を強め、鎮護国家思想の成立をみた。

■ 建造物

  • 興福寺八部衆像
  • 薬師寺吉祥天画像
  • 唐招提寺鑑真和上像
■ 史料

  • 日本三代実録…中国の史書にならい、編年体で記された六国史の最後

日本語を表すために、漢字の音訓を利用した万葉仮名が考案され、 和歌の表記に多く用いられた。 東歌や防人歌など、地方農民の歌が数多く収録されている。 短歌・長歌など約4,500首の歌が、万葉仮名で記されている。農民の気持ちを詠んだ東歌や、苛酷な税の取立てを歌った。

  • 貧しい農民生活を歌った山上憶良の「貧窮問答歌

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