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【高校日本史探究】近世|江戸時代の要点ポイント

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【高校日本史探究】近世|江戸時代の要点ポイントです。「【1】政治」、「【2】産業」、「【3】商業」、「【4】外交」、「【5】文化」と分野ごとにまとめています。

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【1】江戸時代の政治

幕藩体制

江戸幕府の制度は2代将軍徳川秀忠、3代将軍徳川家光の時代にほぼ整い、対外的にはいわゆる鎖国体制がかたまった。こうしてできた国家・社会の仕組みは、将軍と大名(幕府と藩)とが強力な領主権をもって土地と人民とを支配する体制という意味で、幕藩体制とよばれる。

将軍は旗本(1万石未満だが将軍に謁見でき、約5000人)、御家人(将軍に謁見を許されず、1万7000人)という直属の家臣団を多数かかえ、諸大名をはるかにしのぐ強大な軍事力をもっていた。財力の面でも,天領とよばれる将軍の直轄地が17世紀末に400万石に達したほか、江戸・京都・大坂・長崎などの重要都市や佐渡・伊豆・但馬生野・石見大森などの金・銀山を直轄にして貨幣の鋳造権をにぎり、諸大名の財力を大きく上まわっていた。

幕府の職制では、譜代大名が老中・若年寄などの要職につき、旗本は町奉行・勘定奉行などの役職についたが、おもな役職には2名以上を任じて月番交代で政務をとらせ、権力の独占ができにくいようにしてあった。

幕領(天領)と旗本領をあわせた石高は、全国の石高の4分の1程度であった。江戸幕府は、天皇家の経済基盤として禁裏御料を設定した。大名は領国の石高に応じて、将軍への軍役をつとめた。

3代将軍の徳川家光は武家諸法度を改訂して、大名に参勤交代を義務づけた。大名は、参勤交代による江戸での生活を余儀なくされ、国元以外での支出も大きかった。 武家諸法度には、新たな業歳の禁止など大名を統制する規定があった。

徳川綱吉の文治政治

  • 生類憐みの令を出して、犬をはじめとする鳥獣の保護を命じた。
  • 貨幣の質を落とした改鋳を行い、物価の騰貴を招いた。

徳川綱吉は側用人として、柳沢吉保を重用した。 江戸城や周辺の市街地は明暦の大火で大きな被害を受け、幕府財政を逼迫させる要因の一つとなった。

側用人は、将軍の側に仕えて将軍の命令・意志を老中に伝え、老中の上申を将軍へ伝えることを職務とした。側用人の中には、将軍の側近として老中のこえる権勢を振るう者も現れた。

徳川綱吉は、勘定吟味役荻原重秀(のち勘定奉行)の意見を用いて, 財政再建の方法として貨幣の改鋳にふみきった。荻原重秀は、金が8割以上もふくまれていた慶長小判の質をおとし、金を6割以下に減らした元禄小判を大量に発行して、その差益を幕府の収入とした。しかし、財政の危機は一時的に救われただけで、これにともなう物価の値上りが、庶民のはげしい不満をよびおこすことになった。

元禄時代、荻原重秀は財政難を打開するために貨幣改鋳を行い、質を下げた元禄小判を発行した。しかし、貨幣価値の下落は、物価高騰を招く結果となった。

享保の改革

徳川吉宗の時代には諸物価の中で米価が相対的に安くなり、俸緑米を売って生活する武士はますます困窮した。享保改革の時期に、徳川吉宗が登用した青木昆陽が甘藷の栽培にあたったり、オランダ語を学んだりした。財政が悪化した江戸幕府では、収入増加の政策が推進された。その例としては、過去の平均年員量から年貢率を決める定免法を採用したことや、鉄座や真鍮歴による専売政策などが挙げられる。

幕府は18世紀前半、薬用として朝鮮人参や、凶荒用食物として甘藷(さつまいも)などの栽培を奨励した。幕府は享保の改革で、定免法を採用し、年貢量は増加した。

定発法は一定の年貢率で本年貢を課すものであるが、それは永続的なものではなく一定の年限を設けるのが普通であった。町人請負新田などの新田開発が奨励された。

徳川吉宗により町奉行に登用された大岡忠相は、市政改革を行うとともに、裁判の基準となる法典の制定(公事方御定書)などにあたった。

享保改革の時期に幕府は施政に関する意見や役人の不正に対する市民への投書箱である、目安額を設置した。実学奨励のために、キリスト教関係以外の漢訳洋書の輸入を認めた。大名は、財政窮乏に際して、家臣に対し半知の手段をとることがあった。金銀貸借についての争いが続発したため、幕府は相対済し令を出管借に関する訴訟を受け付けずに当事者間で解決させることにした。

徳川吉宗は、旗本に対して、役職の標準石高を定め、それ以下の者が就任するとき、在職中の不足分を支給する制度をはじめ、人材の登用と支出の抑制を図った。

寛政の改革

18世紀末には、幕政において松平定信により寛政の改革が行われ、諸藩でも18世紀後半から幕末にかけて藩政改革が実施された。18世紀には、秋田藩で藩主の佐竹業種が荒廃した農村の復興と特産物生産を奨励し、藩学(藩校)を振興した。肥後熊本藩では細川重量が、米沢藩では上杉治憲(鷹山)が、藩経営に成功して名君とされた。

社会の治安維持のために、江戸石川島には、無宿人らを収容する人足寄場が設置された。寛政の改革で白河藩主松平定信は、老中就任中に旗本、御家人の救援を目的として、借金の破棄、または利下げを命じ棄捐令を出した。江戸で町入用を節約させ、七分積金を行わせた。飢饉に備えるため、米穀の貯蔵を命じた。天明の大飢饉では、貧しい農民が増大していたために、東北地方を中心に多数の餓死者がでた。

徳川家斉から将軍補佐に命じられた松平定信は、1789年、墓領・大名領を問わず、全国の孝行者・忠義者などの調査を行い、全国の民衆教化のために『孝義録』を編集した。

対外関係の緊迫を説いて海防の重要性を主張した林子平は、蟄居(禁固)に処された。渡辺華山が幕府の対外政策を批判して、『慎機論』を著した。山東京伝は、寛政の改革の風俗統制を受けて処罰された。

諸藩の改革

19世紀後半ごと、諸藩も深刻な財政難にみまわれていた。そこで、これを乗り切ろうとして大商人から借金したり、年貢の率を挙げたり、特産物を専売制にしたりしたが、大商人は大名貸(大名への貸し付け)をしぶり、農民も専売制に反対するなどしたため多くは失敗した。

その中で、薩摩藩や長州藩などでは、有能な中・下級武士を多く用いて藩政改革を推し進め、強引な手法で財政の立て直しに成功した。その他、肥前藩、土佐藩、宇和島藩、越前藩なども藩政改革に成功した。

幕末、佐賀藩は反射炉を築造し、大砲を鋳造した。佐賀藩の鍋島直正は農村の再建をめざして均田割を実施した。長州藩の村田清風は、藩財政の再建をはかる一方、農具の不満をやわらげるため専売制を改革した。また、越荷方の制度を整えた。 こうして長州藩では、巨額の借財を整理するとともに、下関の越荷方を拡大して利益をあげた。

新井白石の政治(正徳の治)

朱子学者の新井白石は、綱吉の死後、6代将軍徳川家宣、7打将軍徳川家継の2代の将軍に仕え、文治政治を推し進めた。これを、正徳の治という。

まず、新井白石は、徳川綱吉の遺言に反して、人々を苦しめていた生類憐みの令を廃止し、幕府の儀式・制度や服装を整えて、将軍の権威を高めようとした。

次に、新井白石は海舶互市新例を出して、長崎の貿易額を制限した。さらに、輸入品の代金のうち銅で支払う分を増やし、金銀の流出を防ごうとした。新井白石が改鋳した正徳小判は、慶長小判と同程度の金含有率を持つ良質なものであった。正徳の治を実施した新井白石は、元禄小判を改鋳して良質な正徳小判を発行した。しかし、貨幣価値の変動によって経済に混乱を招く結果となった。

白石はまた長崎貿易を制限した。中国船やオランダ船によって輸入された品物は生糸を第一とし、毛織物・木綿・皮革類、白檀その他の木材などであったが、日本ではこれに対して金・銀・銅などで支払っていた。しかし金・銀の産出が減るとともに銅の輸出が増加したので、白石は1715(正徳5)年に海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)をだして、中国船とオランダ船の船隻数や貿易額を制限した。

新井白石は江戸幕府の歴史において、学者がその理念を政治に反映させた事例として知られる。新井白石は世界の地理・風俗などを記した『采覧異言』を著した。朝鮮からの国書において将軍の呼称を大君から日本国王に改めさせ、将軍の地位を明確にしようとした。幕府は18世紀前半に朝鮮通信使の待遇を改善し、従来より簡素なものとした。宝永小判は元禄小判より金の含有率がふえたが、重量が減少したため貨幣価値は向上しなかった。

田沼意次の政治

徳川家治の老中、田沼意次は、株仲間を公認し、彼らから営業税として運上を徴収した。「役人の子はにぎにぎどが見え」とは、田沼意次の時代に施設が横行したことを詠んだものである。

田沼意次は、朝鮮人参座をおいて朝鮮人朝鮮人参座をおいて朝鮮人参の専売制を敷いた。

田沼意次の時代には、金貨の単位で表された初めての銀貨である、南鎌二朱銀が鋳造された。俵物など海産物に輸出を疑励した。幕府内で権力を振るった田沼意次は、息子の意知が殺されるとともに失脚した。

江戸時代後期、農村では、田畑を手放して小作人となる農民が増加した。佐倉惣五郎の伝承に知られるように、処刑された一揆の指導者の中には代表越訴一を指導した義民として崇められる者がいた。19世紀には、村役人の不正追及などを内容とする村方騒動が各地で頻発した。摂津・河内・和泉の1000を超す村々の農民たちが、綿や菜種の自由販売を求めて国訴を起こした。 江戸時代後期、大坂周辺の農民は、特権商人による綿などの流通独占に反対して、大規模な訴願闘争を行った。享保の飢饉や天明の飢饉などに際して零細な暮らしをしていた町人が行った反抗運動を、打ちこわしという。

18世紀半ば以降、藩の中には藍や紅花などの特産物の生産を奨励し、またその流通を独占するため、専売制を実施するところも あらわれた。藩の中には財政難の解消をはかったり通貨量 を増やしたりするために、独自に藩礼を発行するところもあらわれた。 薩摩藩は奄美三島を支配して、砂糖を生産させ、また琉球を通じて中国と密貿易を行った。

天保の改革

水野忠邦

大塩平八郎の反乱は幕府の飢饉に対する処置に慣った者たちがおこしたもので、大塩平八郎がもと大坂町奉行所与力であったため、 幕府に衝撃を与えた。国学者の生田万は、越後柏崎の代官所を襲撃した。19世紀に、幕府は、関東農村の治安維持をはかるために、関東取締出役が設置された。一方で、ききんが長期化していた。

こうしたききんの長期化で、幕府も深刻な財政難となった中で、老中の水野忠邦は、幕府の財政の再建や封建支配の教科のために、1841年から12代将軍徳川家慶のもとで、天保の改革を始める。

天保の改革では、上知令を出して、江戸・大坂周辺を幕府直轄領に編入しようとしたが、多くの反対にあい、撤回された。農村人口確保のため、江戸に流入した農民を強制的に農村に返す、人返しの法が出された。

水野忠邦は、物価を引き下げるために、株仲間を解散させた。 異国船打払令を緩和して、薪水給与令を出した。さらに、質素・倹約を厳しく命じて華美な風俗を禁止した。

上知令を出したことにより、直接的に影響のあった大名、旗本、百姓らの強い反対により、2年余りで失敗に終わった。

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【2】江戸時代の産業

江戸時代の農業

近世中期以降、農民たちは、茶・漆・桜・紅花・藍などの四水ニ草とよばれる商品作物の生産に力を入れるようになった。近世の農業では箱根用水が造られ、多くの耕地に灌漑用水を供給した。

■ 農具の進化

  • 千石どおし…近世の農業では穀粒の大きさを選別する農具。
  • 千歯扱…米の脱穀に使用する農具として普及した。
  • 唐箕…風力を利用してもみ殻や塵芥を除去する農具として普及。

江戸時代には農書によって、新しい農業技術が広まった。

農学者である宮崎安貞は、日本初の体系的な農学書である『農業全書』を記した。農学者である大蔵永常は、『農具便利論』や商品作物の栽培・加工による農家の利益と国益を論じた『広益国産考』を著した。

大原幽学は民間にありながら農村復興を指導した。 二宮尊徳(金次郎)は、勤労・倹約を主とする報徳仕法によって農村復興に努めた。

商品作物

たばこは江戸時代には商品作物として作られるようになった。麻織物の特産品として奈良廻や越俊胞 ・江戸時代には、青色の染料に用いるが、阿波の国で作付けされれた。近世には陶磁器の瀬戸・鰹節の土佐、酒の灘、醤油の野田など、特産地が各地に形成された。

江戸時代の漁業

地引網などの網を用いた漁法が、各地に広まった。近世、畿内にもたらされた鯖の粕は、九十九里浜からの干解とともに、綿・菜種などの商品作物生産を発展させた。近世に入ると、瀬戸内海地方を中心に、潮の干満を利用して海水を導入する入浜式塩田が発達した。

江戸時代の鉱業

鉱山の開発もすすみ、とくに佐渡や伊豆の金山、 石見大森や但馬生野の銀山、伊予別子・下野足尾の銅山などが知られている。

江戸時代の綿織物業

高機で高級絹織物を生産する技術は、もともと西陣が独占していたが、江戸後期には足利や洞生にも伝わっていた。 高機は、綿織物業では大坂周辺や尾張に導入された。高級絹織物の原料となる生糸は、当初は輸入糸に依存したが、次第に国産糸に代わっていった。 原料・器具とも自前のものを使用する農村家内工業では、様々な手工業生産が農業の片手間に副業として行われていた。問屋から提供された原料・資金で生産する問屋制家内工業により、絹織物が盛んに織られた。江戸時代に発達した綿織物業の特産物として久留米絣や小倉織がある。

近世を通じて、都市の建設が建築資材の需要を高め、木曽の檜、秋田の杉など各地の林業を発展させた。江戸時代には都市の有力商人たちの資本によって、町人請負新田が開かれた。

京都の西陣では、中国から輸入された生糸を原料にして高級な絹織物をつくっていたが、18世紀になると、国内産の生糸が多く生産されるようになり、西陣の技術が各地に伝えられ、関東の桐生など地方で機業が発達した。

江戸時代の醸造業

醸造業では、近世になるとそれまでのにごり酒にかわって 清酒をつくる技術がうまれ、伏見・池田・灘・伊丹などが名産地となった。そのほか、紙は美濃・越前などの各地で生産され、 瀬戸・九谷・有田など優良な陶土のえられるところでは大量の陶磁器がつくられた。

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【3】江戸時代の商業

江戸時代には都市で、常設の店舗を持たない棒手振が活動していた。江戸時代の蔵物とよばれる諸藩の荷物は、蔵屋敷に運ばれた。元禄期には、諸藩は大坂などに蔵屋敷をおき、蔵物の保管と売却には蔵元が、売却代金の保管と送金には問屋が当たった。

  • 札差…旗本・御家人から委託を受けて、俸禄米の換金を行った。
  • 五カ所商人…京都・堺・長崎・大坂・江戸の商人を指す。

元禄期には、大坂・江戸間の物資運送を円滑にするために大坂に二十四組問屋がつくられ、それに対応して江戸に十組問屋がつくられた。商品別の卸売市場がつくられ、大坂堂島の米市、江戸、神田、大坂天満の青物市場、江戸日本橋の魚市場が活況を呈した。金座・銀座・銭座は、それぞれ金貨・銀貨・銭貨の鋳造を行っていた。

江戸時代の町人

江戸や大坂・京都では、町屋敷は町奉行の支配下にあり,町 年寄や町名主が町奉行の命令をうけて、町内の自治をおこなった。住人には、土地・屋敷をもつ町人(家持)と借家をしている店借との区別があったが、彼らはおもに商工業にしたがった。

江戸時代の金融

江戸時代の初めには、幕府は銀座を開設し、丁銀や豆板銀を鋳造させた。江戸では計数貨幣の金貨、大坂では軽量貨幣の銀貨を基準として、商業取引が行われた。商品経済の発達とともに三貨の交換が増えたため、両替商が発達した。

元禄期、両替商の中には三貨間の両替を行うと同時に、預金・貸付け・為替の業務を行うものもあった。江戸時代の都市では、江戸や大坂の有力な両替商が、大名貸や為替業務を行った。17世紀以降の武士の困窮に対し藩は、財政窮乏を打開するために、藩内だけに通用する藩礼も発行した。

江戸時代の農村

農村では、商品生産の発達につれて症熱商人の活動が活発になった。 農村の飢饉が米価を高騰させるなど、都市の民衆にも影響を与えた。都市建設の進展にともなう木材需要に刺激されて、林業が発達した。

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【4】江戸時代の外交

朱印船貿易

豊後に漂着したオランダ船リーフデ号の乗組員ヤン=ヨーステンは、外交顧問として徳川家康に重用され、平戸のイギリス商館設立に尽力した。ウィリアム=アダムズらが乗ったリーフデ号は、豊後臼杵に漂着した。徳川家康は、外交顧問としてウィリアム=アダムズを登用した。家康政権はポルトガル貿易を統制するために、京都・堺・長崎の特定の商人に糸割符仲間を作らせ、輸入生糸の一括購入をはからせた。

田中勝介…1610年、徳川家康によってスペイン領の明貴志子(ノヴィスパン)へ通商を求めるために派遣された京都の承認

1604年、ポルトガル商人らの生糸貿易での利益独占を排除するため、幕府が定めた特定商人に一括購入される制度。生糸輸入の特権を与えられた承認の組合は、糸割符仲間という。

江戸時代初期に、伊達政宗は通商を求めて支倉常長をイスパニアへ派遣した。オランダ商館長は、幕府に対して『オランダ風説書』を提出した。「鎖国」は、ケンペルの著書『日本誌』の一部が19世紀に翻訳されて登場してあらわれた言葉である。京都の茶屋四郎次郎などの豪商は、幕府から海外渡航の許可を得て朱印船貿易に従事し、東南アジアにまで商圏を拡大した。角倉了以は、京都の豪商である。

鎖国政策と禁教

徳川秀忠政権は貿易の制限などを目的として、中国船を例外としてすべての外国船の来航を並戸と長崎の2港に制限した。奉書とは、老中が海外に渡航しようとする日本船に発行した渡航許可証である。徳川家光は日本人の海外渡航を禁止し、すでに海外にいる者の帰国も禁じた。

徳川家光はキリスト教禁止の徹底をはかり、ポルトガル人を追放した。江戸時代初期には、ポルトガル商人によって中国産生糸が大量に輸入された。1641年、鎖国政策の一環として、オランダ商館が平戸から長崎の出島へと移され、鎖国が完成した。

島原・天草一揆は、キリスト京都の多かった島原や天草の人々が、天草四郎(益田時貞)を大将にしておこしました。幕府に鎮圧されます。このころ、キリスト教徒を発見するために、キリストや聖母マリアの像を踏ませる絵踏や仏教の信者であることを証明する宗門改を行いました。

江戸時代には中国人の居住地を、長崎の唐人屋敷に限定した。朝鮮との貿易は、対馬の宗氏が行い、朝鮮の釜山に倭館が置かれていた。日中間には国交がなく外交使節の往来もなかったが、長崎での中国貿易などを通じて文物の交流がなされた。謝恩使が国王の代替わりごとに琉球から幕府に派遣された。

琉球王国と蝦夷地

7世紀初め薩摩藩は琉球王国を占領し貢納させていたが、琉球国王は中国王朝の皇帝に対し臣下の礼をとっていた。 江戸時代初期には、日本の朱印船が東南アジアへ渡航して、さかんに貿易が行われた。

琉球国王が代替わり度と二、その就寝を感謝するため、琉球から江戸幕府のもとに派遣された使節。幕府は琉球からの施設に中国風の衣冠を身につけさせ、「異民族」としての琉球人が将軍に入貢するようにみせた。また、薩摩藩は琉球征服後も中国との朝貢貿易を続けさせ、その利益を吸い上げて藩の財政補填に充てた。

アイヌとの交易の独占を許された松前氏は、その交易権を知行として家臣に分与した。その後、交易は商人が請け負うようになった。アイヌのおもな交易品は、鮮や鯨、昆布などの海産物であり、和人は、本州から米や酒を持ちこんだ。17世紀半ばには、交易条件の悪化を一因としてシャクシャインの戦いが起こった。松前氏の先祖は、15世紀半ばに発生したコシャマインの戦いをしずめて勢力を伸ばした調崎氏である。渡島南部は和人の居住地、それ以外をアイヌの居住地と分けられていた。

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【5】江戸時代の文化

寛永期の文化

日光東照宮の陽明門は、徳川家康を祀る霊廟の門である。織豊政権期の華美で豪壮な建築文化は、日光東照宮など江戸時代初期の建造物にも引き継がれるが、この時代には、簡素な美しさをたたえた数寄屋造も生み出されている。

下の秩序や礼節を重んじた朱子学は、藤原爆落と彼の門人で暮府に登用された林羅山によってひろめられた。

  • 林羅山…江戸時代初期の朱子学者の中心思想は、「存心持敬(日常の言動をつつしみ、本来の自己に立ち返ること)」と「上下定分の理(士農工商の身分秩序、幕藩体制の正当化)」である。
  • 知行合一…理一元論による「知行合一」とは、行動を伴わない知識は本物ではないという実践重視の教えで、朱子の「先知後行」を批判する王陽明の根本思想である。

江戸初期から活躍していた久隅守景は、「夕顔棚納涼図屏風」など情感ある農村風俗画を描いた。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に大名たちが朝鮮の陶工を連れ帰り、薩摩焼有田焼などの基礎をつくった。酒井田柿右衛門は上絵付の技法を修得し、赤絵磁器の製造に成功して、有田焼の名を高めた。

元禄文化

5代将軍徳川綱吉の知世を中心に華やかな活気にあふれた町人文化を展開。京都・大坂の豪商や武士が主な担い手だったので、上方文化ともいわれる。

■ 主な元禄文化の文化人

  • 吉田光由…『塵劫記』を著し、和算の普及に寄与した。
  • 関孝和…高等数学の理論を組み立てて和算を大きく発展させ、『発微算法』を著した。
  • 将軍徳川綱吉…湯島聖堂を建てて、林信篤(鳥岡)を大学頭に任じた。
  • 伊藤仁斎…古義学派を形成し、古義堂を開いて多くの門人を育てた。
  • 山崎闇斎…儒教(朱子学)と神道を融合させて垂加神道を開いた。

朱子学の一派である海南学派(南学)が土佐に起こった。その流れをくむ山崎闇斎門下の佐藤直方は、幕府の判断を支持し、元赤穂藩士の討ち入りを批判した。朱子学者の室鳩巣は、幕府に登用され八代将軍吉宗の信任を得た。朱子学が広く学ばれるようになったが、古学を提唱した山鹿素行のように、朱子学を攻撃して幕府によって赤穂に流される者もいた。山鹿素行の著書には、『聖教要録』がある。中江藤樹は、陽明学を提唱した。

古文辞学派の代表的人物である荻生徂徠は、柳沢吉保に仕えて『政談』を著した。『経済録』などの著述をもつ太宰春台は、赤穂藩士たちが、吉良義央ではなく幕府と対決すべきであったと主張した。17世紀半ばには岡山藩が陽明学者の熊沢蕃山を招いたようにいくつかの藩では儒学思想にもとづいて家臣や領民を教化する破策がとられた。

契沖は、古典の和歌を従来の伝統にとらわれずに綿密に考証し『万葉代匠記』を著した。17世紀末から18世紀初頭には、北村季吟が『源氏物語』などを研究して、『源氏物語湖月抄』を著した。江戸幕府は儒者の林羅山に命じ、日本の通史である『本朝通鑑の編纂という大規模な修史事業を行った。水戸家に生まれた徳川光圀は、家督を継いで藩政確立に努める一方、彰考館で歴史書である『大日本史』の編纂をはじめ、朱舜水がを招いて学事にあたらせた。動物や薬草などの研究を行う本草学が発達した。

■ ここも抑える

  • 本草学者の稲生若水…『庶物類集』を編集した。
  • 貝原益軒…『大和本草』を著し、本草学の基礎を築いた。
  • 安井算哲…中国の暦を訂正した貞享暦が作成した。

元禄文化を代表する浄瑠璃脚本家の近松門左衛門は、竹本義太夫と結び多くの作品を残した。人形浄瑠璃は、浄瑠璃が新しい曲風の義太夫節と結びつくことによって発展した。「日本永代蔵」などの浮世草子に、現世を生き抜く町人の姿が描かれた。

■ 主な文学者

  • 浮世草子を創始した井原西鶴…町人の愛欲の世界を奔放に描写し、営利の道を肯定的に描いた。
  • 松尾芭蕉…松永貞徳ら貞門派や西山宗因ら談林派の俳風を学び、自己の俳風として正園(蕉風)を確立した。
  • 西山宗因…談林派による俳諧がもてはやされた。

近世において女歌舞伎が禁止されると、これに代わって美少年が女役を演じる若衆歌舞伎が盛んになった。 江戸の市川団十郎は、立ち回りの勇壮な演技で売事役者としての名声を博した。

江戸時代には、宮崎友禅が、友禅染の技法を開発した。 17世紀末から18世紀初頭には、尾形光琳が絵画のみならず、高絵の分野でも「八橋蒔絵硯箱」、「紅白梅図屏風」などを描いた。紅白梅図屏風は、俵屋宗達の画法を取り入れ、洗練された装飾的表現をとった 尾形乾山は京焼の大成者の野々村仁清の弟子である。菱川師宣は浮世絵を大成し、「見返り美人図」を残した。

宝暦・天明期の文化

西洋の学術の総称を江戸時代初期には南蛮学、江戸時代中期には蘭学、幕末には洋学と呼ばれる。

西川知見は、中国・東南アジア・ヨーロッパなど世界各地域の産物を記した『華夷通商考』を著した。新井白石は潜入したイタリア人宣教師シドッチを尋問し、『西洋紀聞』を著した。徳川吉宗が野呂元丈らにオランダ語を学ばせたことを契機に、蘭学が芽生えた。

凶作時にも強い、甘藷の栽培法を研究した青木昆陽は、『蕃薯考』を著した。また、本草学者の田村藍水は平賀源内のすすめで、江戸で最初の物産会を開いた。

近世後期には、大槻玄沢が『蘭学階梯』を著すなど、蘭学の普及につとめた。また、江戸に蘭学の私塾である芝蘭堂を設立して多くの子を養成した。

  • 杉田玄白ら…西洋医学の解剖書『ターヘルニアナトミア』を翻訳した。
  • 志筑忠雄…『暦象新書』を著して、こュートンの力学やコペルニクスの地動説を紹介した。
  • 稲村三伯…最初の蘭日対訳辞書である『ハルマ剤薬』を訳出した。

蘭学の成果を吸収するために設けられた箇書和解御用(掛)では、洋書の翻訳などが行なわれた。 高保己ーは、日本の古典史料の刊行を進めた。

本居宣長は、長年にわたって『古事記』を研究した成果を『古事記伝』としてまとめた。仏教や儒教が伝来する以前の日本人本来の思想を研究する学問として、国学を大成した。国学者の平田篤胤は、賀茂真淵の説をうけて復古神道を唱えたが、この説は豪農層の間にも普及した。

  • 伊能忠敬…全国の沿岸の測量を行い、『大日本沿海輿地全図』の作成にあたった。
  • 平賀源内…物理学の研究を進め、摩擦発電器(エレキテル)の実験を行い、寒暖計や不燃性の布などをつくった。

化政文化

文化・文政期に江戸を中心に発達した文化。シーボルトは長崎郊外に鳴滝塾をひらいて医学の講義や実際の治療を行い、多くの人材がここで西欧の医学や博物学を学んだ。ドイツ人医師シーボルトは、帰国時に持ち出しを禁じられた日本 地図などを持ち出そうとして、国外追放となった(シーボルト事件)。19世紀前半、シーボルトが最新の日本地図を国外に持ち出そうとした事件で、幕府の役人高橋景保が処罰された。

  • 緒方洪庵…適塾(適々斎塾)を設立し、蘭学が教授。多くの人材を輩出した。

心学は、儒教道徳に仏教・神道の教えを取り入れてつくられ、商人の商業活動を正当なものとして認めた。心学は、倹約・正直などの徳目を庶民に説いた。手島堵庵は、庶民の生活倫理をわかりやすく説く心学の普及に努めた。

18世紀末、幕府は聖堂付属の学問所で生子学以外の学間を教えることを禁止し、さらにその後、学問所を幕府の学校とした。 江戸時代の中期以降に発達した藩校は、藩士の子弟の教育機関あった。大坂の町人によって設立された懐徳堂は、山片蟠桃ら多くの町人学者を生みだした。

開国による重商主義的国営貿易による富国策を主張した本多利明は、『西域物語』や『経世秘策』を著した。近世中期、安藤昌益はその著『自然真営道』において、万人直耕の自然世を理想とすることを説き、身分制を強く批判した。 三浦梅園は、儒教と洋学を取り入れた条理学を唱え、『玄語』などを著した。

  • 山県大弐…尊王論の立場から幕府を批判して処罰された。
  • 竹内式部…京都の公家に尊王論を説いて処罰された。

水戸の会沢安(正志斎)は、尊王攘夷論を主張した。会沢安(正志斎)や藤田東湖は、水戸学の発展に大きな役割を果たした。

  • 佐藤信淵…産業の国営化と積極的な海外進出をとなえ、強力な統一国家の形成を主張し、『経済要録』を著した。
  • 工藤平助…開港の必要性を論じて『赤蝦夷風説考』を記し、暇夷地開発を主張した。
  • 林子平…『海国兵談』を執筆して、江戸湾の防備が手薄なことを指摘し、ロシアの南下に警告を唱えて海防論を展開したが、寛政の改革で処罰された。

『仮名手本忠臣蔵』の作者は竹田出雲である。近世中後期、菅江真澄は民衆の生活に関心を向け、『菅江真澄遊覧記』として信濃路から蝦夷地までの膨大な紀行日記を残した。江戸時代後期、鈴木牧之は、雪国の生活や風俗を『北越雪譜』に描写した。

  • 小林一茶…『おらが春』を著した。
  • 恋川春町…代表的な黄表紙に、『金々先生栄華(花)夢』がある。
  • 滝沢馬琴…『歴史を素材とした南総里見八犬伝』など の読本が出版され、広く読まれた。

庶民文化に対する幕府の弾圧例の代表的人物として、洒落本作家の山東京伝 や浮世絵師の喜多川歌麿らが挙げられる。『春色梅児誉美』『春色梅暦』を著した人情本作家の為永春水は、天保改革期に、風俗を乱したという理由で処罰された。大田南畝らは、滑稽味のなかにも世相風刺をこめた狂歌を作った。 式亭三馬は滑稽本がさかんに出版されるなか、『浮世風呂』など、を書いて活躍した。

都市を中心に賃本屋が現れ、文化の普及に寄与した。出版物や貸本屋が普及する中、黄表紙と呼ばれる社会風刺や滑稽さを織りまぜた大人向けの絵入りの小説が盛んに作られた。河竹繁栄の弥は歌舞使作者として活躍した。

  • 池大雅…与謝蕪村とともに『十便十宣図帖』を描いた。
  • 司馬江漢…西洋画の技法により銅版画を制作した。
  • 亜欧堂田善…西洋画を修得した。
  • 葛飾北斎らにより風景版画が出版された。その代表作に富嶽三十六景がある。

江戸時代の大首絵は、上半身を大きく描く様式で、大首絵の画家としては、東洲斎写楽が著名である。幕末に輸出された浮世絵は、ヨーロッパ印象派の画家に影響を与えた。

江戸時代後期には伊勢神宮への参詣が盛行し、数百万人の参宮者があったという。 近世には寺社参詣や巡礼にあたっては、講という組織が結成されることがあった。信仰のための組織として、庚申講などがつくられた。江戸時代後期の四国遍路は、信仰上の目的だけでなく、遊興をともなう旅の名目ともなっていた。江戸時代の中期以降、「ええじゃないか」を連呼して乱舞する民衆の運動が起こった。近世の夏の祭礼の盂蘭盆では、鎮守の森などで盆踊りが催された。

葛飾北斎や歌川広重らの絵師は、主要街道の風景ばかりでなく、江戸・大坂の庶民生活や全国の景勝地をシリーズにした作品も描いている。安価な刷絵も普及し、それらに印象を受けた人びとは各地への関心を高めていった。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』 などの道中記は読者に対して街道の様子を伝え、旅の日程の情報も与えた。人気の高まりの背景には、寺子屋の教育による識字率の上昇や貸本屋による書物の普及があった

「かぶき者」は、徳川綱吉による取り締まりの強化から、次第に姿を消していった。元禄時代の将軍・徳川綱吉は、既存の法令や判例を集大成したり して(天和の武家諸法度など)、その治世の初期は、「天和の治」 とよばれる文治政治を推進した。朱子学を官学とし、湯島に聖堂を建立した。

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