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【高校倫理】夏目漱石の思想のポイント

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【高校倫理】夏目漱石の思想についてまとめています。夏目漱石(1867年から1916年没)は、旧制松山中学などで教鞭をとったあと33歳で英文学研究のためイギリスに留学し、イギリスと日本、西洋と東洋の大きな違いに衝撃を受け、日本人が英文学を理解することに困難と不安を感じた。この困難の克服なしに英文学を語ることは、他人の理論の受け売りに過ぎず、自己を見失い他者の意見に迎合する他人本位のあり方であると夏目漱石は感じて苦悩した。

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夏目漱石の思想

夏目漱石は、1911年の講演「現代日本の開化」において、「西洋の開化は内発的(自然発生的)であって、日本の現代の開化は外発的(外国の圧力で無理やり開始されたもの)である」と述べた。そのため、急激な開化の中で日本人は自己を見失い、不安の中で他人本位の生き方をしているとした。

文明開化

明治前期には、文明開化といわれる新しい風潮の浸透もあり、都市を中心に国民の生活様式は変化を示すようになった。明治初期、開港地や東京などの大都市では牛鍋などの肉食が流行した。交通には、人力車や乗り合い馬車が用いられた。明治期以降、長屋は、資本主義の発展とともに都市に流入してくる多くの人々の住居となった。

文明開化期、銀座に日本初のガス灯が設置された。明治初期、文明開化の風潮の中で、ちょんまげに代わるザンギリ頭や洋服の着用が流行した。西洋諸国にならい旧暦(太陰太陽暦)にかわって太陽暦が採用され、また1日24時間制、週7日制も決められた。農家では、依然として家族労働力に支えられる状況がつづいていた。

夏目漱石の自己本位

夏目漱石は他人本位の生き方を否定し、他人に頼らず自分で判断し、自己の個性に即して生きる自己本位(個人主義)の生き方を指針とすることにより、迷いから抜け出した。しかし自己本位を極端に押しすすめると、自己と他者の間では軋轢が生じ、自己の利益だけを考えて他人を顧みないエゴイズム(自己中心主義)に陥ることもある。しかし、他人の個性も尊重しなければ自己の個性も十分に発展させることはできない、と夏目漱石はいう。(『私の個人主義』)夏目漱石は『こころ』や『明暗』などの作品においてエゴイズムの問題を追究し、エゴイズムを超える倫理を求めて苦闘した。

夏目漱石の則天去私

晩年の夏目漱石は、小さな私(自我)を去り、天(大我・自然)の命ずるままに生きるという「則天去私」の考えにたどり着いた。自己本位の個人主義を徹底した末に行き着いた東洋的な心のあり方でもあった。

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大正デモクラシー

大正時代に入ると、経済発展にともなう都市の中間層の形成などを背景に、政治・社会・文化の各分野で自由主義・民主主義的な風潮が広がった。これを大正デモクラシーという。「民本主義 政治学者吉野作造は、1916年、雑誌『中央公論』に論文「憲政の本義を説いて共有終の途を論ず」を発表した。そのなかで、民本主義を唱えて、大正デモクラシーの政治的指導理論をつくった。

民本主義

「民主主義」とは異なり主権がどこにあるかを問わず、政治の目的を民衆の福利に置き、政策決定においては民衆の意向に基づくべきだと説いた。具体的には普通選挙制と政党内閣制の実現を主張した。明治憲法の枠内で、その立憲主義的な面を最大限に生かす民主化を求めた理論といえる。

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大正時代の解放運動

大正デモクラシーの思潮は、社会的・政治的差別からの解放を求める運動に刺激を与えた。

女性(婦人)解放運動

女性を封建的な差別や抑圧から解放しようとする運動。明治前期に自由民権運動の中で、岸田俊子や景山(福田)英子が男女同権を求めたことに始まる。1911年、平塚らいてうは、青緒社を創設し女性のための文芸誌『青』を発刊した。創刊号で「元始、女性は実に太陽であった」述べ、女性の解放宣言として大きな反響を呼んだ。その後、平塚は市川房枝らと新婦人協会を設立し(1920)、婦人参政権を求めるなど、女性の政治的・社会的地位向上をめざして活動した。

部落解放運動

江戸時代の封建的身分制で最底辺に置かれ、明治以後も社会的な差別が続いた部落を解放するため、被差別部落民自身の組織として1922年に全国水平社が結成された。その創立大会で発表された、西光万吉の起草による全国水平社宣言は、人間性の原理に基づく人権宣言であり、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と結ばれた。

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