【高校倫理】国学・蘭学・儒学についての比較です。
国学・蘭学・儒学についての比較
日本は16世紀半ばに西洋文明と初めて接触したが、その後は江戸幕府の鎖国政策により外国との交流は制限を受けた。そうしたなかでも、西洋の新しい知識は小さな窓口から流入し、国内にも新しい思想や学問が育ち、近代社会への転換を準備した。
この近代社会を準備する過渡期における思想面の特徴として、3点があげられる。
- 儒学や国学の発達による実証的・批判的精神および尊王思想の形成
- 蘭学・洋学による西洋文明の理解や、科学的・合理的思想の導入
- 復古神道の広まりなどによる国民としての自覚
比較 | 国学 | 蘭学 | 儒学 |
---|---|---|---|
内容 | 日本の古典研究 | 西洋の学問 | 儒教の学問 |
主な人物 | 本居宣長 | 杉田玄白 | 大塩平八郎 |
功績 | 古事記伝 | 解体新書 | 陽明学 |
蘭学
朱子学者である新井白石は、日本に潜入したイタリア人宣教師シドッチ (シドッティ)を尋問して『西洋紀聞』などを著し、洋学の先駆者となった。
しかし鎖国体制下で西洋文明の公式の窓口となったのは、長崎のオランダ商館だけであった。そのため、西洋の学問は蘭学と呼ばれた。甘藷(サツマイモ) 栽培の提唱で有名な青木昆陽は、徳川吉宗の命を受けてオランダ語を学び、蘭学発展の要因をつくった。
医学・科学としての蘭学
前野良沢や杉田玄白らによる西洋解剖書『ターヘル=アナトミア』の翻訳書『解体新書』の刊行(1774)は、蘭学発展の大きな契機となった。
西洋の天文・暦学や物理学も研究され、志筑忠雄はニュートン力学やケプラーの法則、地動説などを日本に紹介した。
事情の研究から幕政批判
18世紀末以降、頻繁に外国船が日本近海に出没するようになった。
オランダ商館のドイツ人医師シーボルトの鳴滝塾で学んだ高野長英は、渡辺華山らと尚歯会(蛮社)に参加し、西洋の科学だけでなく西洋事情や海外情勢の研究を行った。
しかし、1837年のモリソン号事件に際し、高野長央は『成成夢物語』、渡辺華山は「慎機論』を著して幕府の外交方針を批判したため、蛮社の獄(1839年)で2人とも処罰された。
古学
古学とは、孔子や孟子の言動とかけ離れた朱子学を批判し、後世の儒学者による解釈を排除して『論語』『孟子』などの古い原典に直接あたり、聖人の真意を明らかにしようとする学派である。
原典の真意を解明するという立場を取りながら、そこには日本的な思考方法や近世日本社会の現実に即した儒教解釈が反映されている。
山鹿素行の教え
有名な兵学者でもあった山鹿素行(1622年から1685年)は、朱子学の日常生活からかけ離れた観念性や内面の修養にかたよった立場を批判した。そして著書『聖教要録』において、漢代以降の儒学者の説を排し、直接、周公や孔子など古代中国の聖人の教えを学ぶという立場を明らかにして、古学を提唱した。
山鹿素行は、戦乱のない泰平の世における政治的支配者としての武士の「職分」を問題とした。武士の「職分」は、自ら倫理的自覚を高めて人格の修養に努め、農・工・商の三民の長として人間の生き方の模範とし、士道と呼んだ。
■ 古学・本草学・天文学・国文学など
- 契沖…古典の和歌を従来の伝統にとらわれずに綿密に考証し『万葉代匠記』を著した。
- 北村季吟…『源氏物語』などを研究して、『源氏物語湖月抄』を著した。江戸幕府は儒者の林羅山に命じ、日本の通史である本朝通鑑の編纂という大規模な修史事業を行った。
- 徳川光圀…家督を継いで藩政確立に努める一方、彰考館で歴史書である『大日本史』の編纂をはじめ、朱舜らを招いて学事にあたらせた。
- 稲生若水…『庶物類集』を編集。
- 貝原益軒…『大和本草』を著し、本草学の基礎を築く。
- 安井算哲…中国の暦を訂正した貞享暦を作成。
武士道と士道
■ 士道…近世になると、泰平の世を治める為政者のための道徳として、儒学にもとづく士道が武士道から分離。
山本常朝
新しい時代の合理化された武士の規範としての士道に対し、伝統的な武士道の立場を主張する書物が山本常朝(1659年から1719年没)の『葉隠』。
「武士道というは、死ぬことと見つけたり」と説く『葉隠』の武士道では、主君の死後、家臣があとを追って切腹する殉死も肯定される。これに対して、山鹿素行の土道では殉死は厳しく批判・否定され、幕府も1663年に公式に殉死を禁止している。
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