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【高校倫理】福沢諭吉の思想のポイント

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【高校倫理】福沢諭吉の思想についてまとめています。

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福沢諭吉

福沢諭吉(1835年から1901年)は、日本の啓蒙運動の代表的思想家である。父親は中津藩(大分県)の下級武士で、身分が低いため生涯不遇であったのでのちに「門閥制度は親の敵でごさる」と述べた。福沢は緒方洪庵の適塾などで蘭学を学び、江戸に蘭学塾を開くとともに英語も独習した。幕府の使節に加わって、3回欧米へ渡り、西洋社会を見聞し、のちに『西洋事情』で欧米の歴史・政治・制度・文物などを紹介した。

明治維新後は新政府の官職につかず、1868年に慶應義塾を創設し、1872年から1876年にかけて『学問のすすめ』を、1875年には知識層向けに『文明論之概略』を刊行するなど、常に在野の立場から人々の啓蒙や青年の教育などに努めた。

天賦人権論と独立自尊

福沢諭吉は『学問のすすめ』で、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」と福沢諭吉と述べ、西洋近代の自然権思想に基づく天賦人権論を説いて、人間は生まれながらに平等の権利を持つとした。しかし、人間の平等が実際に成り立つためには、個々人が独立自尊の精神を持たなければならない。それは、人間の尊厳を自覚し、他に依存せず自らの判断で行動し、自立して生計を立てようとすることであるとした。

実学と独立心

独立自尊のためにはまず学問に励むことが必要だが、その学問は「人間普通日用に近き(実生活の役に立つ)」実学でなければならない。その実学の代表は数理学(実証的・合理的な近代諸科学)であり、儒学などは退けた。福沢諭吉は、西洋にあって東洋にないものは、「有形に於て数理学、無形に於て独立心」であるとし、和魂洋才の立場とは異なって、精神的な面も西洋から学ぶ必要があるとした。そして、「一身独立して一国独立す」と述べ、独立自尊の精神が国民の間に根づくことによって日本の国の独立も保たれると考えた。

官民調和と脱亜論

1880年代から福沢は、国家権力と民衆の権利の調和をはかる官民調和を唱えた。急進的な自由民権運動を批判して、政府の富国強兵策を支持した。さらに、西洋列強によるアジア支配の進展に危機感を強めた福沢諭吉は、国権拡張論を唱えるようになった。福澤諭吉は近代化の進まないアジア諸国との連帯を断念して日本も西洋列強への仲間入りをめざす脱亜論を説き、日本のアジア侵略を容認した。

福沢諭吉は慶應義塾を創設して教育に従事したり、『文明論之概略』を著したりするなど、多彩な活動を行った。天皇家の祖先神を祀った伊勢神宮は、神社制度の頂点とされた。明治初年に、長崎の浦上キリスト教信徒の流罪事件が起こった。

このころの学問

幕末から明治初期にかけて欧米に留学した体験をもつ人々の多くは、政府・民間にかかわらず、西洋近代の制度や思想を積極的に紹介し、それを政策に生かそうとした。明治政府に雇われた外国人技術者(お雇い外国人)が、欧米の産業技術の導入に貢献した。日本の近代化の進展のために、お雇い外国人にかわって近代化の担い手となったのが、新しい技術や文化を学んで帰国し、教員や技術者として活躍した留学生たちであった。明治時代初期には、アメリカ型の農業技術の導入を目的に、札幌農学校が設立された。

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