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【高校日本史探究】飛鳥時代・律令国家の要点ポイント

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【高校日本史探究】飛鳥時代・律令国家の要点ポイントです。

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飛鳥時代

5世紀から6世紀にかけての時期には、大伴金村が対朝鮮政策の失敗をとがめられて失脚した後、しだいに物部氏と蘇我氏が対立するようになった。

  • 592年…蘇我馬子は男の崇峻天皇を暗殺し、姪の推古天皇を即位させた。
  • 645年…蘇我氏が政治において強硬手段を多用したことは、645年の乙巳の変で蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされる一因となった。 聖徳太子の時代には、5世紀以来とだえていた中国との交渉が隋使の派遣により再開された。小野妹子は「日出る処の天子」からの国書を持参し、後(日本) は中国皇帝と対等の関係を築こうとした。

推古朝

推古朝で摂政であった聖徳太子の時代には、豪族を官僚として編成するために冠位十二階の制や、官僚としての心構えなどを説いた憲法十七条が制定された。聖徳太子は、「篤く三宝を敬え」と説いた。聖徳太子は経典の注釈書である『三経義疏』を著したと伝えられている。天皇の系譜や伝承などを記した『天皇記』や『国記』が、聖徳太子、蘇我馬子によってまとめられた。 遣唐使や遣隋使に随行した留学生・留学僧の中には、高向玄理がいる。

6・7世紀ごろには、百済滅亡前後に日本へ渡来した王族・貴族の影響もあって、漢詩文の制作がさかんになった。 大和政権は、新羅にほろぼされた百済に援軍を派遣したが、白村江で唐・新羅の連合軍に敗れた。高句麗僧の雲徴によって、紙・墨・絵の具の製法が日本に伝えられた。

推古天皇と外交

中国では、581年におこった隋が、589年に南朝の陳を滅ぼし、統一して大帝 国となり、高句麗に遠征するなど、周辺にも大きな影響を与えた。推占朝では、はじめ「任那」復興の問題で新羅攻撃を計画していたが、これを中止し、隋の統一による東アジア情勢の変化にともない、倭の五王以来途絶えて冊封関係がなかった中国との国交を開き、中国文化の摂取をめざした。

  • 冊封…皇帝が官位を授けること

飛鳥文化

飛鳥文化の仏像の様式には、中国南北朝時代の影響が認められる。例として法隆寺の釈迦三尊像がある。飛鳥時代には、法隆寺金堂釈迦三尊像の作者と伝えられる鞍作鳥(止利仏師)などの仏師が活躍した。

中宮寺の『天寿国編帳』は、聖徳太子の死後に作られた刺繍で、太子が往生した天寿国のありさまを描いたものとされる。7世紀の東日本では、集落の支配者である豪族は平地式の住居に居住していた。

大化の改新

難波は内海に開け、外国の使節が度々来訪して交渉の場となった。大化改新の際に都となり、奈良時代にも一時的に遷都が行れた。大化の改新以前に有力な皇位継承者と目されていた山背大兄王はいるが、蘇我入鹿によって自殺に追いこまれた。

孝徳天皇が即位する直前に、蘇我氏の中心人物であった蝦夷・入鹿父子が倒された。

改新の詔では京・畿内や地方の行政制度や中央集権的な交通・軍事の制度、新たな租税制度を定めている。 日本海側の蝦夷支配の拠点として、淳足綱・緊舟欄が設けられた。

  • 公地公民…皇室や豪族が私有していた土地や人々を、国が直接支配する。
  • 国郡制度…都の周辺を「畿内」とし、全国を国・郡に分けて国司・郡司をおいて統治。
  • 班田収授法…戸籍をつくって人々に公地(口分田)を貸し与え、死ぬと国に返される。
  • 租・庸・調…口分田を与えられた人々は、租・庸・調などの税を納める。

斉明天皇の時代には、蝦夷を服属させるため、阿倍比羅夫を秋田・津軽方面に派遣した。白村江の戦いでの敗戦後、天智天皇は防衛のために、九州大宰府のすぐ北に、貯水によって敵の侵入を防ぐ水城を築いた。

天智天皇の時代には、わが国最初の全国的戸籍として庚午年籍がつくられ、氏姓の根本台帳として重視された。壬申の乱は、天智天皇の子の大友皇子を中心とする勢力と、天智天皇の弟の大海人皇子を中心とする勢力の間で争われた。壬申の乱の終了後に、八色の姓が定められ、諸豪族は新しい身分秩序に編成された。672年の壬申の乱ののち、都が近江から飛鳥へ移され天武天皇が即位した。

天武天皇は壬申の乱の後、畿内の有力豪族が没落したことにより相対的に権力を強め、親政を行った。天武天皇は仏教を尊重して大寺院を建立する一方、僧尼を規制し、仏教を国家統制の下に置いた。 天武天皇は飛鳥浄御原会事を開始をした。 天武・持統天皇の時代には、律令法典の編纂と官僚制の整備が進められた。

持続天皇は、もと天武天皇の皇后であったが、夫・天武天皇や息子・草壁王子の死後、自ら皇位につき、また孫・文武天皇の即位も実現している。 持統天皇は庚寅年籍を制定した。柿本人麻呂は勇壮な長歌を数多く詠んだが、そのなかには天皇を神格化する歌も含まれている。

7世紀末には、中国の都城にならって、飛鳥北方の地に条坊制をもつ大規模な藤原京が営まれた。 百済滅亡をきっかけに、日本は新羅と厳しく対立し、緊張関係が高まったが、のちには国使も派遣され、文化的交流が進められていった。藤原氏は大化改新に功績のあった中臣鎌足に藤原朝臣の氏姓が与えられて成立し、その子藤原不比等は律令編纂などに大きな役割を果たした。

大官大寺は、7世紀後半に建立された代表的な官立の寺院である。7世紀後半には、滅亡した百済から日本に逃れた王族・貴族たちが文化に影響を与えた。

大宝律令

律令政府は碁盤の目状に土地を区画する条里制によって、農における耕地を把握した。古代の日本では、官僚制などを整えるため、中国の律令法を取り入れた。

天武天皇は、即位ののち一人の大臣もおかず、皇子たちとともに政治をおこない、豪族を新しい支配体制に組みいれようとした。そして684年、八色の姓を定め、豪族を皇室との関係の遠近に応じて新しい身分に位置づけた。

また律令や国史の編さんにも着手した。つぎの持統天皇(天武天皇の皇后)はこれをうけついで、689年飛鳥浄御原令を施行するとともに、藤原京の造営をすすめ、694年、古京の飛鳥からこの新京に都を移した。

藤原京はわが国ではじめての中国風な都城である。続いて文武天皇の701(大宝元)年には、刑部親王・藤原不比等らの手によって大宝律令が制定され、ここに日本は律令国家としての形をととのえた。大宝律令の改定法として、養老律令が編纂された。

  • 律令…律令国家の行政機関、租税制度、刑罰や裁判制度が定められていた。
  • …犯罪とそれに対する刑罰について定めた法典であり、国家や天皇に対する犯罪は、八虐という重罪の一つであった。 律令下の法は、太政官の合議・立案を経て、天皇の裁可を得て制定された。
  • …今日の行政法や民法にあたる。

大宝律令にもとづく政治のしくみ

  • 治部省…国家の仏事や外交を担当した。
  • 刑部省…刑罰に関する政務を担当した。
  • 弾正台…風俗の取り締まりや官更の監察を担当した。
  • 鎮守府…蝦夷に対する支配を進めるため、陸奥国に置いた。
  • 摂津職…難波には特別行政機関として設置された。
  • 国司…任期は当初6年とされたが、後に4年に短縮された。
  • 里長…里に置かれており、里はのちに郷と改名された。

律令政府は調前を課す基本台帳として、毎年計帳を作成した。班田収授・氏姓確認の基本台帳として、6年ごとに戸籍を作成した。すべての人民を、身分の上で良民と賎民に分けて支配。中央の財源となった調庸は、成年男子のみに課され、女子には課されなかった。 口分田には1段あたり2束2把の租が課され、口分田は、6年ごとに回収された。

農民の税

  • 稲の出挙…おもに春に借り秋に利子とともに返済する制度であった。
  • …地方の正倉に収納され、地方の財源に充てられた。
  • …中央での労役(歳役)のかわりに布などを納めるものとされた。
  • 雑徭…国司の命令による年間60日以内の労役であった。
  • 兵役…成年男子を3人に1人の割合で徴発する兵役が行われた。

律令制度の変遷
桓武天皇は、班田収授を6年から12年に1回(一紀一班)とすることでその完全実施をめざしたが、9世紀に入ると班田収授自体が滞りはじめた。

醍醐天皇は、延喜の荘園整理令(902年)や班田収授の励行など律令制の再編をめざしたが、結果として902年が全国規模における最後の班田収授となった。醍醐天皇は村上天皇とともに藤原氏を摂政・関白をもたない天皇親政の理想の世(延喜・天暦の治)とされるが、律令制の崩壊が露呈したのも10世紀であった。

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