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【高校日本史探究】平安時代の要点ポイント

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【高校日本史探究】平安時代の要点ポイントです。

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平安時代

称徳天皇の死後、天智天皇の孫の光仁天皇ついでその子の桓武天皇が即位し、律令政治の再建を図った。光仁天皇に続く桓武天皇は、新しい政治をめざして寺院などの旧勢力の強い平城京から長岡京へ、さらに平安京への遷都を行った。784年に桓武天皇が奈良から遷都した長岡京 の跡地から、「東院」 と記す木簡が出土し、遺跡の性格や造営の事情を知る材料となっている。平安時代初期には令に規定された官司や役人が整理され、財政の再建がはかられた。

桓武天皇の政治

桓武天皇は東北・九州などを除いて軍団・兵士を廃止し、郡司の子弟を健児とした。

  • 坂上田村麻呂・阿倍比羅夫…7世紀に蝦夷を征討した。征夷大将軍となった坂上田村麻呂が胆沢城を築いた。
  • 勘解由使…令外官が置かれ、国司の交替を監督した。

検非違使

京内の治安維持をつかさどる検非違使を設置した。検非違使は、平安京内の警察にあたるもので、裁判権も掌握していった。さらに。大宰府管内に公営を置き、財源確保を図った。8世紀以来出されていた格と式を、弘仁格式として編纂した。

■ 三代格式
弘仁・貞観・延喜格式

薬子の変

810年、嵯峨天皇は、武力で平城上皇との対立を解消し(薬子の変)、桓武天皇以来の方針を継承して、蔵人所・検非違使の設置など、律令国家再建のための諸政策を実施した。薬子の変に先立ち、嵯峨天皇が設置した蔵人頭の主要な職務は、天皇の側近として機密事項や訴訟を扱うなど、政治運営上、重要な役割を果たした。

貴族の一族子弟の教育機関は大学別曹である。平安時代、律令の解釈を精密に行う学問が発達し、令の公式な注釈書として『令義解』が作られた。

平安時代初期と仏教

奈良時代後半には、仏教が政治に深く介入して弊害もあったことから、桓武天皇は、南部の大寺院を長岡京・平安京に移転することを認めず、最澄らの新しい仏教を支持した。最澄は比叡山で修学し、804(延暦23)年遣唐使に従って入居、天台の教えを受けて帰国し、天台宗をひらいた。最澄はそれまでの東大寺戒壇における受戒制度に対して、新しく独自の大乗戒壇の創設をめざした。これは南部の諸宗から激しい反対を受けることとなり、最澄は『顕戒論』を著して反論した。その後、大乗戒壇の設立が公認され、最澄のひらいた草庵にはじまる比叡山延暦寺はやがて仏教教学の中心となっていった。浄土教の源信や鎌倉新仏教の開祖たちも多くここで学んでいる。

空海
遣唐使や遣隋使に随行した留学生・留学僧には空海がいるが、空海は帰国後、9世紀に高野山に金剛峰寺を開き、真言宗を伝え、平安時代には、庶民への学芸教授のため、空海が綜芸種智院を設けた。

最澄
遣唐使に随行した留学生・留学僧には、最澄がいるが、最澄は帰国後、比叡山に延暦寺を建立し天台宗を伝えた。9世紀には天台宗に密教が本格的に取り入れられた。 伝教大師は遣唐使に従って入唐し、帰国後には延暦寺を拠点に奈良仏教を批判し激しく対立した。

奈良時代には神宮寺が建てられ、神前で読経するなどの神仏習合が始まった。また、山中を修行の場とする修験道が盛んになり、山岳信仰が広まった。9世紀前半には、西海道の地に公営日を設けて農民に割り当て、調や庸を徴収する新しい徴税方法が試みられた。

摂関政治

藤原冬嗣は薬子の変に際して嵯峨天皇が機密文書を取り扱うために初めて設けた蔵人頭となり、天皇の側近として信任され、皇室と姻戚関係を結んだ。清和天皇は、これまでの成人が即位するという例を破ってきわめて幼くして即位し、藤原良房は臣下としてはじめて摂政をつとめた藤原良房は応天門の変の解決後、正式に摂政の位につき、以後摂政・関白が常に置かれる政治体制を築いた。藤原氏が政権の独占を成し遂げたのは、安和の変以降のことである。

摂政・関白は、金制の左・右大臣・人政大臣の職務とかかわりなく、その上に位するものとなり、もっぱら天皇の外戚にあたるものが任じられた。また天皇が幼少のときには摂政となり、成人ののちには関白となるのが慣例となり、摂関につくものは、藤原氏という私的な地位もかれるようになった。

橘氏は皇族の出身で、奈良時代には藤原氏と拮抗する勢力を持っていた。橘逸勢が承和の変で失脚して以後、没落していった。平安宮応天門の炎上は大納言伴善男の陰謀とされ、善男らは配流された。光孝天皇の即位に際して、藤原基経ははじめて関白に任じられた。

醍醐天皇の時代に、左大臣藤原時平と対立した右大臣の菅原道真は大宰府に左遷された。醍醐天皇の在位中に、唐は滅亡した。10世紀前半には、醍醐天皇と村上天皇によって、後に延喜・天暦の治とよばれる天皇親政が行われた。

  • 承和の変…842年、恒貞親王の即位を企てたとして、橘逸勢らが流罪となった。
  • 応天門の変…866年、応天門に放火したとして、伴善男が伊 豆に流罪となった。
  • 安和の変…969年、為平親王の即位を企 てたとして、源高明が大宰府に左遷された。

藤原氏全盛

平安時代中期以降、天皇の幼少期には摂政が、成人後には関白が置かれた。藤原兼家・道長の時代には、皇朝十二銭の最後の貨幣である乾元 大宝が鋳造された。三蹟の一人である小野道風が活躍した。

  • 枕草子…貴族社会の生活や感情をつづった『枕草子』が著された。
  • 藤原道長…当時流行した浄土の教えを信じ、晩年には阿弥陀堂を中心とする法成寺を造営した。
  • 藤原実資の『小右記』…宮廷の儀式や故実について記された記録がある。そこには、「この世をば我が世とぞ思ふ、望月の欠けた ることもなしと思へば」と詠んだ藤原道長の栄華についても記述されている。
  • 藤原頼通…約50年にわたって摂関の地位を独占し、平等院鳳凰堂を建立した。

貴族の生活

貴族は、結婚すると夫が妻のもとに通い(妻問婚), または数人の妻のうち, おもだった妻の家に同居することが多 かった。したがって婚姻生活の中心はむしろ妻の家にあり、子もそこで養育された。天皇の外祖父が勢力をふるう摂関政治は、このような貴族の生活慣習によるところが大きい。男子は15歳前後で元服すると成人としてあつかわれ、官職をえて朝廷に出仕したが、その昇進の順序や限度は、家がらによってほぼ一定していた。朝廷での仕事も、すべて先例によっておこなわれ、儀式的な年中行事が発達し、これらについて十分にこころえていることがたいせつな教養とされた。天災や社会不安がおこると、それは政治的事件で不遇な最期をとげた人の票りだとし、その霊をなぐさめる御霊会がさかんになった。

地方行政や外交などの重要な事柄は、内裏の左近衛陣でおこなわれる太政官の公卿の合議(陣定という)により審議された。また中納言以上は上卿といって、分担して宮廷行事を執行したり、諸官司や諸国からの申文を決裁するなど、公卿一人ひとりの権限は大きかった。

院政

11世紀の中頃、富士和紙と外戚関係のない後三条天皇が即位する。後三条天皇はみずから政治をとる意欲に燃え、1069(延久元)年に荘園整理令をだし 記録荘園券契所(記録所)をおいて、不法な荘園を禁止しようとした。宣旨枡という統一的な枡を定めた。平安時代中期以降、後三条天皇は大江匡房らを登用し、国政の改革を行った。

父である後三条天皇の跡をついだ白河天皇は、1086年に慈姑を幼少の皇子にゆずって上皇となり、院(上皇とその御所)で政治を行った。これを院政といい、以後、実質的に約100年の間続いた。

平安時代後期に展開された院政は、王家内部の対立を徐々に激化していこになった。それは藤原氏(摂関家)を中心とする貴族諸家の内部分裂抗争を引き起こすことにも なった。保元の乱・平治の乱はそれらの対立を背景に起こった事件。これらの乱に勝利した平清盛以後、平氏はやがて、全盛期を迎えることになります。

荘園整理令はその名の通り、荘園を整理して班田の励行を図る。書類に不備がある荘園や、正式な手続をふまずに設立された荘園を没収して公領とした。

院政期には、成功や重任が盛んとなり、知行国制も拡大した。荘園の寄進が院に集中するようになり、摂関家をしのぐ勢いを見せた。摂関家におさえられていた中下級貴族や受領らが、院の近臣を形成した。

白河上皇は自分の心に従わないものとして、賀茂川の水、双六の事の目とともに延暦寺の僧兵をあげた。平治の乱で勝利を収めた平清盛は乱後、後白河院政のもとで中央政界での地位を高めた。

平氏の栄華

平氏は諸国の武士団の組織化に力をつくしながら、多くの荘園や知行国を手にいれて富をたくわえた。また平清盛は日宋貿易に力をいれて、瀬戸内海航路をととのえ、大輪田泊(現、神戸港)を修築し、宋の商船を畿内にまでひきいれた。宋からの高級織物や香料・書籍などの輸入品は、平氏の富をさらに大きく貢献した。

こうした武力と富によって平氏は後白河上皇につかえ、ついには平清盛が太政大臣になったのをはじめ、一族も高位高官につき、平清盛の娘徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となって、平氏にあらざれば、人にあらずとまでいわれるようになった。だがこの平氏政権も、武士の政権とはいえ、それまでの朝廷の 支配機構をそのまま利用してきずかれていただけに、平氏によって圧迫された旧勢力の強い反発をうけた。

平清盛は太政大臣に任命され、その一族も高位高官に昇った。大輪田泊の修築を行うなど、日宋貿易を奨励した。13世紀中頃から借上を金融業者として、米銭の輸送または賃借に為替という決済手段が用いられた。

後白河上皇の時期には、鹿ケ谷事件(鹿ヶ谷の陰謀)が起き、藤原成親が俊寛とともに処罰された。11世紀には、上級貴族や寺社は知行国主として一国の支配権を与えられ、国守には国主の子弟が任命された。

国風文化

国風文化は、日本の風土や生活に合った優美で細やかな貴族文化で、11世紀の前半、摂関政治の時に全盛期を迎えました。国風文化の時代になっても、男性貴族は漢字を使用した。片仮名の使用は、漢字の一部を表音記号として用いたことに始まる。

土佐日記』以後、宮廷女性らによって多くのかなの日記が作られたが、『和泉式部日記』もその一つであった。平安時代中期以降、転換期の歴史意識を反映する、和文体の歴史物語が作られた。 子孫に先例を学ばせるために『小右記』などの日記が書かれた。

国風文化では和歌が社交の手段としてもてはやされ、『古今和歌集』が編纂された。貴族生活を素材に、『伊勢物語』や『宇津保物語』、摂関政治が全盛期を迎えた頃には、清少納言によって、宮廷貴族の生活を題材とした『枕草子』が記された。平安時代には光源氏を主人公とする、理想的な貴族の生活を描いた『源氏物語』が生まれた。

平安時代には、在来の神々は仏の仮の姿であるとする本地垂迹説が唱えられた。10世紀半ばには京中で空也が極楽往生の教えを説き、市聖と称された。摂関政治が全盛期を迎えた頃、末法思想の広がりのなかで、源信は『往生要集』を記して往生の方法と浄土教の教義を説き、当時 の貴族に大きな影響を与えた。

■ 浄土教
浄土教は、末法思想によっていっそう強められた。盗賊や乱闘が多くなり、災厄がしきりにおこった世情が、仏教の説く末法の世の姿によくあてはまると考えられ、来世で救われたいという願望をいっそう高めたのである。そして、めでたく往生をとげたと信じられた人びとの伝記を集めた慶滋保胤の『日本往生極楽記』をはじめ、多くの往生伝がつくられた。
■ 末法思想
平安時代中・後期に末法思想が広がった背景には、疫病の流行や災害があった。国風文化が花開いた時代には、貴族は陰陽道を重んじたため、その日常生活には方違や物忌などの慣習が広まった。国民の祝日であるこどもの日は、端午の節句にその起源をもつ。
  • 10世紀以降、浄土教が貴族の間に浸透した。藤原道長が建てた法成寺の阿弥陀堂や藤原頼通が建てた平等院鳳凰堂。
  • 醍醐寺五重塔初層の内部には曼荼羅が描かれ、密教的空間が構成されている。
  • 藤原時代の貴族の住宅である寝殿造は、中央部に寝殿(正殿) を持ち、透渡殿によって対屋や釣殿と結ばれていた。
  • 阿弥陀堂の代表的な遺構である平等院鳳凰堂が、藤原頼通によって建立された。

院政期の文化

古代日本では、中国の影響を受けて国家の事業として歴史書の編募が行われた。平安後期には、貴族社会において、『大鏡』などの歴史物語も作られた。

11~12世紀には絵と詞書からなる絵巻物が描かれ

  • 応天門の変を題材にした「伴大納言絵巻」
  • 庶民の生活・風俗を描いた 「信貴山縁起絵巻」

などが作成された。

  • 今昔物語集…今昔物語集からは、平安時代の人々の生活をうかがうことができる。
  • 陸奥話記…前九年の役の経過は、院政期に著された軍記物『陸奥話記』に述べられている。
  • 梁塵秘抄…後白河上皇は、今様を愛好し、『梁塵秘抄』を集めて握した。

平安時代中期以降、院は大規模な寺院や離宮などをさかんに造営した。院政時代、上皇は造寺・造仏を行うとともに、たびたび熊野へ参詣した。 12世紀前半、藤原清衡によって建立された中尊寺金色堂は、藤原氏滅亡以後も、現在に至るまでそのきらびやかな姿を伝えている。

  • 中尊寺金色堂…地方に伝わった浄土教の影響を強くうけた建築物である。
  • 阿弥陀堂…院政期には奥州藤原氏によって、平泉に阿弥陀堂を中心とする寺院が建立された。
  • 厳島神社…平安時代末期には、平清盛ら平家一門が、厳島神社を信仰し、華麗な装飾をほどこした経巻を奉納した。

『扇面古写経』や『平家納経』は、院政期に書かれた作品である。もとは寺社の祭礼などで興行された滑稽を主とする雑芸であった。 能の源流の一つである田楽は、古くから農村の庶民の間で親しまれ、各地の祭礼で演じられていた。

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