【高校倫理】内村鑑三の思想

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【高校倫理】内村鑑三の思想についてまとめています。

内村鑑三

高崎(群馬県)の藩士の子として、儒教と武士道精神の中で育った内村鑑三(1861 ~ 1930)は、札幌農学校在学中にキリスト教に入信した。23歳のときに渡米し、新島襄の勧めでアマースト大学に在学中、総長シーリーの影響を受け、信仰を確かなものとした。

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二つの」

内村鑑三は、イエス(Jesus)と日本(Japan)の「二つのJ」に生涯をささげることを誓った。これは、日本人の心において学び取った聖書の教えを日本の社会に実現し、日本を神の義にかなう国にすることによって世界と神に尽くすという意味である。内村鑑三はこのことを、「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、すべては神のために」という言葉で表現した。

武士道とキリスト教

内村鑑三は、自らの信仰を「武士道に接木されたるキリスト教」であると述べた。信義誠実を重んじ、利害・打算を超えて義のために尽く す武士道の精神は、キリスト教の理想を社会に実現する土台となるものであり、そのような日本の精神的伝統の上に自らの信仰を形成したという。

不敬事件と非戦論

1891年、第一高等中学校の講師であった内村鑑三は、教育勅語奉読式の際、勅語への拝礼を拒み、世の非難を浴びて辞職した(不破事件)。内村鑑三は天皇に敬愛の念を抱いていたが、天皇を神として拝むことはキリスト教徒として拒否した。また内村鑑三は、足尾銅山鉱毒事件では田中正造を支援した。日露戦争に際しては主戦論に反対して徹底した戦争反対論である非戦論を説くなど、自らの信念をつらぬいた。

無教会主義

内村鑑三は、人間が神の前で独立した人格であることを重んじた。大切なのは教会や儀式ではなく、各人が直接聖書の言葉と向き合って自己の信仰 を深めることだとして、無教会主義を唱えた。内村の主著には、『余は如何にして基督教徒となりし平』『基督信徒の慰め』『代表的日本人』などがある。

明治期のキリスト教

1973年(明治6年)にキリスト教の禁令が解かれると、外国人宣教師の布教運動も活発となり、特にアメリカ系のプロテスタンティズムなどが 知識人を中心に広まった。しかし厳格な唯一神観念を説くキリスト教は、天皇や皇室を国民統合の基軸と考えた明治国家の価値観と、ときに激しい摩擦を引き起こした。

新しい思想

近代思想を紹介したのが、福沢諭吉の「学問のすすめ」(人間の平等と民主主義)、中江兆民によるルソーの思想の紹介。自由民権運動とつながる。キリスト教の禁止が解かれ、信仰の自由が認められる。日刊新聞や雑誌の発行で、新しい思想が広まる上で大きな役割を果たす。福沢諭吉の慶應義塾に、新島襄の同志社など私立学校の設立。
確認【高校倫理】福沢諭吉の思想

新島襄

幕末に聖書を読んで感銘を受けた新島襄(1843 ~ 90)は、アメリカへ密航してアマースト大学に学び、卒業後神学も修めた。その間、森有礼の世話で正式な留学生となり、岩倉使節団にも加わり欧米の教育事情を視察した。在米中からキリスト教精神に基づく大学の設立を志し、帰国後の1875年に同志社英学校(後の同志社大学)を創設、教育と布教に努めた。

植村正久

明治維新後横浜で入信、牧師となった植村正久(1857~1925)は、1904年に東京神学社を創設するなど、日本におけるプロテスタント神学の形成」 や伝道者養成に指導的役割を果たした。外国の伝道組織からの独立をめざす一方、国家権力からの解放もめざし、内村鑑三の不敬事件では政府を非難した。

新渡戸稲造

内村鑑三とともに札幌農学校で学んだ新渡戸稲造(1862 ~ 1933)は、アメリカやドイツに留学し 帰国後教育者として活躍した。人道主義・人格主義教育に努めるとともに、「太平洋のかけ橋とならん」ことを志し、キリスト教と日本文化の融合をめざした。新渡戸稲造は 英文で『武士道』を著し、武士道は「日本の魂」であるとと もに普遍的な道徳規範の体系であるとし、その道徳を継承しながらキリスト教の人道主義をもって育成するという方向を見出した。また、国際連盟の事務次長などを務めた。

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