【高校倫理】鎌倉仏教についてまとめています。平安時代末期、新たな社会の担い手として武士や農民が台頭して、またその一方で、政治的・社会的動乱の中で末法の世の自覚はさらに深まった。こうしたなか、比叡山に集まった修行僧たちの中から、新しい時代に適した仏教の姿を探求する動きが高まった。
親鸞
親鸞(1173年から1262年没)は、9歳で比叡山に入り20年修行したが、煩悩から恐れられず、山を下って法然の弟子となった。
- 1207年、専修念仏への弾圧て越後に流罪となり、僧籍も剥奪された。
- これ以後、自らを僧でも世俗の身でもない「非僧非俗」の「愚禿親鸞」と名乗り、妻をめとり肉食し、在家仏教の道を歩んだ。
- その後流罪は解かれ、関東や北陸などで20年にわたり布教した。
晩年は京都に戻って、主著『教行信証』などの著述につとめた。
没後、後継者により親鸞を開祖とする浄土真宗が開かれた。
凡夫の自覚
親鸞は自分の罪業の深さを見つめ、煩悩具足の(煩悩を具えた)凡夫の自覚を持っていた。しかし、阿弥陀仏は自分のような人間をこそ救おうと誓いを立てたのだと考え、自力の修行を捨てて他力信仰の道を進んだ。
『歎異抄』に記された親鸞の言葉として、「たとえ法然上人にだまされ、四獄に落ちたとしても自分に後悔はない。なぜなら自分はどんな修行ものがび難く、もともと地獄行きは決定的な身だからだ」という内容のもまた、親鸞は自身の心を見つめ、「悪性さらにやめがたし、こころはさそり)のごとくなり」と述べた。
悪人正機
法然は、だれでも悪人であっても往生することができると説いた。親鸞はこの考えを進め、「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや(善人ですら往生できるのだから、悪人が往生できないことがあろうか)」と述べ、悪人正機の思想を唱えた。
- 「善人」…自力で善事をなしとげる(自力作善)という自信にあふれた人、「悪人」とは、善をなそうとしてもできない自分の煩悩や罪深さを自覚し苦しむ人のことである。
自信があって自力をたのむ阿弥陀仏にすがる心の薄い「善人」すら阿弥陀仏は救おうとするのだから、他力をたのみ阿弥陀仏の慈悲にすがるしかない「悪人」が救われないはずはない。「悪人」をこそ極楽浄土へ迎えるため、阿弥陀仏は衆生救済の誓いを立てたのであるとした。
絶対他力・自然法爾
法然の説いた専修念仏は、往生のための善行として自分不今仏するという自力の要素が生じてしまうと、親壁はとらえた。力をすべて捨て去った絶対他力の立場に立ち、阿弥陀仏への信心を持つことも念仏を称えることもすべて人間の意志ではなく、阿弥陀仏のはからいによると考えた。このように、すべては阿弥陀仏のはからいのままにあるということ、また自力を捨ててそのはからいに、すべてをまかせきるということを、親鸞は自然法爾と呼んだ。
報恩感謝
阿弥陀仏のはからいで救われて、極楽往生は定まっている。念仏は往生の手段ではなく、すでに救われていることへの感謝として称えるのである(報恩感謝の念仏)。
法然
15歳で出家した法然(1133年から1212年没)は、比叡山で天台宗の教えを学んだが、その教えには満足を得られなかった。法然が求めたのは、末法の世にふさわしい仏教のあり方で、学問も財産もなく、戒律を保つこともできないあらゆる民衆を救うことができる教えであった。法然は、源信の『往生要集』を通じて善導の思想と出会い、43歳で専修念仏の教えに帰依した。法然は 比叡山を下りて浄土宗を開き、民衆に教えを広めた。
聖道門と浄土門
法然の著書『選択本願念仏集』によると、仏教の教えは聖道門と浄土門の2つに分けることができる。
- 聖道門…自力の修行で悟りを開くことをめざす教え。難行道ともいう。
- 浄土門…阿弥陀仏の救いの力、つまり他力によって浄土に生まれ、来世で悟りを開くことをめざす教え。易行道ともいう。
法然は、末法の世に生まれた凡夫(欲望にとらわれた人間)が自力の修行で悟りを開くこと(聖道門)は不可能であり、他力・易行の浄土門にしか救われる道はないと考えた。
専修念仏
法然によれば、極楽浄土に往生するため必要なことは、ほかの修行法は一切捨てて、ただひたすら「南無阿弥陀仏」の念仏を称えることである(専修念仏)。法然にとって、最も簡単にできる称名念仏こそ、凡夫のために仏が選んだ極楽往生のための唯一で究極の正しい行であった。
栄西
栄西(1141年から1215年没)は、比叡山で受戒して天台密教を学んだ。2度にわたり索へ渡って禅宗にひかれ、禅の修行に励んで、禅宗の一派である臨済宗を日本に伝えた。
興禅護国論
禅宗は圧迫されたが、栄西は『興禅護国論』を著してこれに反論した。栄西はこの中で、末法の世であるからといって戒律を守らない風潮を批判し、末法であればこそ戒律を守るべきことを強調し、禅を興すことが鎮護国家につながることを説いた。やがて臨済宗は幕府の保護を受け、鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺が建立された。
禅の導入
他力による救済を説いた法然・親鸞など浄土教の各派に対し、自力による雑の修行で悟りを開くことを主張したのが禅宗である。禅(禅定)とは、雑念を払い精神統一することである。禅は菩薩の六波羅蜜の1つにも挙げられるが、禅宗では、特に足を組んで瞑想する坐禅を修行の中心とした。禅宗はもともと6世紀に中国へ渡ったインドの僧・達磨によって開かわ量代には中国仏教の主流となった。
不立文字
仏の悟りの内容は、文字や言語によらず心から心へし直接伝えられ、経典の教えのほかに以心伝心で別に伝えられる。
直指人心
坐禅により自己の心を目の当たりにとらえ、心の余曲をきわめることがすなわち仏となることである。
道元
道元は、13歳で比叡山に入り、天台宗を学んだ。しかし道元は、天台宗の教えでは人は生まれながらに仏としての本性(仏性)を持っているはずなのに、なぜ改めて修行が必要となるのか、という疑問を抱いた。そのため道元は比叡山を下り、建仁寺で栄西の弟子の下で禅の修行を始めた。23歳のとき宋に渡り、曹洞宗の僧如浄と出会い、その下で悟りを得た。1227年に帰国し、日本曹洞宗を開いた。1243年、越前(福井県)に永平寺を建て、修行の道場とした。
只管打坐
道元は、如浄のもとで、正しい修行とはただひたすら坐禅をすること(只管打坐)以外にないことを学んだ。道元は「人々皆仏法の器なり(人はみな 仏になる能力を持つ)」と説き、坐禅によって修行をすれば誰でも自力で悟りの境地に至ることができるはずだと考えた。道元は、末法思想によって自己を卑下し現世の悟りを放棄する他力の立場を批判した。
身心脱落
道元は、ひたすら坐禅をすることにより、心身とも一切の束縛を離れて本来の姿に立ち戻り、ありのままの存在と一体化した境地に入ることができるとし、このような境地を身心脱落と表現した。 道元はこの境地について、次のように語った。
修証一等
道元は、坐禅の修行(修)は、悟り(証)と一体である(修証一等、修証一如)とした。坐禅は悟りに至るための単なる手段ではなく、坐禅の修行がそのまま悟りの境地である。捨て身で只管打坐する姿そのものが仏の姿なのである、と説いた。
道元の著書
- 正法眼蔵…95巻には、道元が折にふれ説示した内容がまとめら れている。
- 正法眼蔵随聞記…弟子の懐奘が師の言葉を記録した。道元の考え方が平明な言葉で記されている。
日蓮
安房国(千葉県)の漁師の子として生まれた日蓮(1222年から1282年没)は、天台宗の寺で16歳のとき出家した。「仏陀(釈迦)の教えは1つであるのに、多くの経典があり 宗派に分かれているのはなぜか」という疑問を抱いた。比叡山などで修行し、やがて「法華経(妙法蓮華経)」に釈迦の究極の教えを伝える唯一の正しい経典であるという確信を持つに至った。
法華経
天台宗においても『法華経』を最高の経典としている。日蓮もその立場を継承し、そこに自らの解釈を加えた。日蓮は、特に次の2点をあげて、『法華経』が末法の世を救う至上の経典であると主張した。
- 法華経だけが、(上座部仏教の出家者を含めて)すべての人が救われることを明らかに説いている。
- 法華経では、浄土は来世や遠い未来の世界にあるわけではなく、この現実世界に(しかも末法の世であるこの現世に)実現されると説く。
日蓮は、こうした『法華経』理解を基礎として、日蓮宗(法華宗)を開き、現世における浄土(仏国土)の建設をめざした。
題目
一般の人が『法華経』を読んでその深遠な内容を理解することは難しい。そこで、日蓮は人々に「南無妙法蓮華経」の題目を唱えること(唱題)を 勧めた。唱題により、人々は『法華経』に説かれた永遠の真理としての仏と出会い、誰でも現世において成仏できると説いた。
立正安国論
日蓮は『法華経』の興隆による鎮護国家を説く『立正安国論』を著し、人々が『法華経』の教えにそむけば内乱や外国による侵略を招くとし、『法華経』に基づく政治を行うことを為政者に迫った。
法華経の行者
日蓮は、四箇格言に示されるように、他宗派を厳しく排撃し、幕府への直訴も繰り返した。そのため、しばしば迫害や弾圧を受けた。しかし『法華経』には、この経を支持する者は迫害を受けると記されていることから、日蓮は迫害によりますます『法華経』の教えを実践し広める法華経の行者としての自覚を深めていった。
一遍
一遍(1239年から1289年没)は、はじめ天台宗を学んだが、浄土宗の教えを受けて念仏に専念した。熊野権現に参詣中、神のお告げを受けて一遍と改名し、「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と書かれた念仏札を配りながら全国を遊行して歩いた。一遍を開祖とする浄土教の一派を時宗という。
思想
一遍は、「南無阿弥陀仏」という名号そのものが絶対的な力を持つとした。信・不信(信心を持つか持たないか)すら往生には無関係であり、誰でも念仏すれば極楽往生できるとした。一遍は、念仏をどう称えるか問われた空也が語ったとされる「捨ててこそ」という言葉を重んじ、地獄を恐れる心も極楽往生を願う心も何もかも捨ててひたすらに念仏することが阿弥陀仏の本願にかなうとした。一遍自身も、すべてを捨てて少数の弟子とともに全国を遊行したので、「遊行上人」、「捨聖」と呼ばれた。
踊念仏
一遍は空也にならい、踊りながら念仏する踊念仏を行った。それは念仏を称えることがすでに極楽往生であるとして、その喜びを表すものだった。
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