【高校倫理】西田幾多郎の思想のポイント

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【高校倫理】西田幾多郎の思想をまとめています。西洋の近代哲学の精神と東洋の禅などの伝統思想を共に学んだ。近代日本の代表的哲学者が西田幾多郎です。代表著書のなか「善の研究」において、自己の確立に重要なのは純粋経験であると説きました。このあたりについてみていきます。

西田幾多郎とは

西田幾多郎(1870年から1945年没)は、石川県に生まれ、東京帝国大学の選科生として哲学を学んだ。その後教員をつとめながら、哲学の研究を続けるとともに、臨済宗の寺院で熱心に坐禅の修行を行った。そして、西洋哲学の論理的思考に基づいて、坐禅などの体験による東洋的あるいは日本的思想の根本原理を解明しようとし、独自の哲学体系を構築した。その出発点とされるのが、1911年に刊行された日本最初の独創的哲学書『善の研究である。

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西田幾多郎の純粋経験

西洋哲学は、普通主観と客観の対立から出発する。しかし西田幾多郎は、人間の経験の最も根本的なものは主観と客観が分かれる以前(主客未分)の、思考による反省を一切含まない直接的経験であるとして、これを「純粋経験」と呼んだ。たとえば、美しい音楽に心を奪われて、自分も対象も忘れ、ただ音楽のみが天地に響いているといった経験である。西田幾多郎は、この純粋経験こそ決して疑うことのできない真の実在であるとした。

人格の実現

純粋経験は、主観のような単なる個人の意識ではなく、個人を超えたところにある意識、人類一般の意識である。個人の意識としての自己を否定し、主観と客観を統一する大きな働きと一体となって純粋経験に没入するところにこそ「真の自己」がある。そして、真の自己を知ることが人格の実現である。『善の研究』では、善とは人格の実現であると説く。

絶対無

絶対無は、純粋経験という考えをつきつめる中で到達した概念である。それは「有」に対する「無」という相対的な概念(相対無)ではなく、相対的な有無の対立をこえて、しかも相対的な有・無を成り立たせる根拠となるような絶対的な無を意味する。

日本における近代哲学の誕生

中江兆民が『一年有半』の中で「戦日本古より今に至る迄哲学なし」と嘆いたように、近代日本哲学の歴史は哲学の伝統のないところに哲学を移植することから始まった。それはまず西洋哲学を翻訳することであった(明六社の創立メンバーの1人西周は多くの哲学用語の訳語をつくった)。明治時代末ごろになって、ようやく西洋哲学の受容や紹介にとどまらない、独創的な研究が登場するようになった。

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