【高校倫理】空也と源信についてまとめています。
浄土信仰
平安時代中期になると、文化の国風化とともに、仏教にも浄土 信仰(浄土思想)と呼ばれる新しい傾向があらわれた。浄土とは、諸仏がつくりあげた清浄な理想世界のことで、凡夫の住む煩悩の織れに満ちたこの世(織土) に対する語である。浄土信仰とは、穢土を離れて浄土に生まれること(往生)を 願う信仰である。浄土信仰は飛鳥時代から見られたが、なかでも、その慈悲のカで一切衆生を救うとされる阿弥陀仏の(西方)極楽浄土に対する信仰が発展し、浄土信仰の中心となった。
浄土教
阿弥陀仏を信じることで、死後に極楽浄土へ往生できると説く教えを、一般に浄土教という。浄土教はインドから中国に伝わり、特に唐の善導(613年から681年没)は、「南無阿弥陀仏」という念仏を称えることで救われると説いた。日本の浄土教も、この流れをくんで、空也や源信によって発展したものである。
空也と源信
空也
10世紀にあらわれた空也(903年から972年没)は、念仏を称えながら諸国をめぐり歩き(遊行)、市聖・阿弥陀聖と呼ばれた。空也は、道を開き、橋をかけるなど社会事業にも努め、遺棄された死者があれば念仏を称えて 火葬した。空也はまた、鉢や瓢箪をたたき、鉦を鳴らし、踊りながら念仏をして(踊念仏)、阿弥陀仏への信仰を民衆に広めた。
源信
天台宗の僧であった源信(942年から1017年没) は、『往生要集』3巻を著し、「厭離穢土・訳求浄土」(この穢れた世を厭い離れ、極楽浄土への往生を飲んで願い求めること)を説いた。極楽往生のため、彼は念仏を勧めた。念仏の方法としては、心を集中して阿弥陀仏や浄土の姿を思いえがくこと(観想念仏)が中心であった。また、観想念仏がうまくできない者のために、口で「南無阿弥陀仏」と称える称名念仏(口称念仏も認めた。
末法思想
平安時代後期になると、浄土信仰は急速に広まっていった。その背景には、末法思想の広がりがあった。これは、仏陀(釈迦)没後の時代を3つに区分し、しだいに仏教が衰えてゆくと考える歴史観である。
- 正法…仏陀の教(教え)、行(修行)、証(悟り)がすべて実現する時代。仏陀の没後、1千年続く。
- 像法…仏陀の教と行はあるが、証は実現しない時代。正法の次の1千年
- 末法…仏陀の教えが説かれるのみで、正しい修行を行う者も、悟りを開く者もいない時代。像法のあと、1万年も続くとされる。
日本では仏陀(釈迦)は紀元前10世紀頃の人と考えられ、2000年目にあたる1052年から末法の世に入ったとされた。各地で戦乱や天災、飢饉などが相次ぎ、貴族社会が衰退を始め不安の中で、阿弥陀仏の慈悲にすがるしか救われる道はないと考えるようになっていった。
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